【 蒼炎の魔女

闇には
     
 陰には
          
世界になど存在しない


貴女を殺します。
そう。なら私はあなたを笑わせるわ。
 

そして暗殺者は魔女と踊る――





「蒼炎の魔女を殺せ」

 今日は雨だ、と言うように軽くいわれた言葉。命令に了解を問う言葉は付随しなかった。
 その言葉を聞いたときわたしは目の前にある倒れた男を見ていた。男は政治犯。今ある体制の崩壊を画策した男。男はもうそんな夢を見ることもない。
 わたしは男の眉間に弾を撃ち込んだ銃を袖になおした。その男を水源として血の池が徐々に広がってゆく。一歩、男から離れる。薄汚れた灰色の靴をこれ以上汚したくもなく、そして伝令を見るため。
 湿った独特の臭いで個室は埋もれていた。そこにはわたしと伝令以外に誰もいなかった。人一人が死んでいるというのにそれは静寂の一言だった。

 いや、すでにこの死んだ男は人間ではない。只の肉の塊。朱い液を垂れ流しにしているだけの袋。ではこれは死体ではないのか。

 控えていた伝令はもう一度私に指令を届けた。その言葉は二人に関係を持たせる。殺すか殺されるかだ。
 命令は一方的にこの二人を繋げる。わたしは満足も不満も期待も落胆もなく、ただ返事にイエスを返した。
 殺せ、イエス。ヤれ、イエス。必ず、イエス。神の名で死を肯定する。
 伝令の気配はすぐに消えた。死体の処理を命じにいったのだろう。それはすでにわたしの領域ではなく、この“死”の波紋を知ることもない。

 “殺せ”――――軽くて、重い言葉。
 一見矛盾に見えるそれは実は“イノチが重いもの”という認識さえ無ければまたたくまに矛も盾も崩れ落ちる。そんな不安定さが闇には薄く陰には濃い世界には満ちていた。
 重厚な薄灰雲が今日も世界に覆い被さっている。陰鬱な世界では光は見えず、されど暗くとも視界が広がる。常に夕暮れ十分前の世界。昼でも夜でもない、やはり中途半端な世界だった。
 わたしはそんな世界に不満も満足も覚えてはいなかった。


 そして、今から思えばそれが始まりの言葉でもあった。
 空虚だと思っていた私の心は自覚のないままに透明な水に満たされていた。そう、何がとけ込んでいるのかもわからない透明な水。
 そこに波紋を起こした始まりの石が貴女だった。淡く光を反射する水面を貴女は見てくれたのだろうか。

 重くて、軽い言葉。終わりを告げ、始まりを起こした言葉。
 そのなんでもない矛盾をきっと貴女はユーモアだとあのいつもの調子で笑うのだろう。



 闇には薄く、陰には濃い。
 街の中をわたしは当てもなくさまよう。暗い天、暗き地面。上も下も変わらぬ単調な色彩。煙突からはき出される煙はそのまま雲になって空を埋め尽くす。太陽の姿はおろか、空の色すらも人々は忘れた。わたしも一度も見たことはない。きっと空もくすみ澱んだ灰色だろう。
 目に痛い蛍光色に彩られているネオンすらも薄汚れていた。この世に純粋な色などなく、みな一様に灰を被っている。夢と享楽を謳ったネオンにわたしは背を向けた。夢も享楽もすべて幻。そして弾けた。その店には誰もいない。わたしの同業者に全員殺されたはずだ。

 感情を統制された世界に争いはないと謳った者がいた。それが初代国家総帥。感情を抑制させる薬を開発した科学者と手を組み、この国を平和へと導いていった。その薬を飲むことを全国民に義務づけた。二十年前の話である。
 誰も悲しまない、怒らない。静かで平穏な日々が始まり、犯罪は極端に減少した。しかし、薬は喜びなどの感情も抑制した。それゆえに、感情を求める声は止まない。それがなぜ欲しいのか分からない。感情を――特に感じたことのないわたしには不可解だった。
「君は、何を感じて生きているのだね?」
 最期に妻と子の名を口にした男はそういって二時間前に死に、ナンセンス、わたしは確かそう言って銃口を降ろした。
 “神”自身に感情が求められていないのに、作られた道具に感情があるわけがない。
 この国では感情をあらわにすることを禁じている。罪を犯した者は逮捕、拘束、もしくは死刑。

 身を切るような風で服がはためいた。ボロボロで薄汚れくたびれた服から見え隠れする痩せた胸に刻まれた神聖なる十字。その下にはD846のという文字。印刷ではなく焼き印。
 
 D846、それがわたし。わたし、それがD846
 
 ソレはわたし同様人間に見られるべきではない――風を押し出すように私は襟元をかき合わせた。今は夏。じっとりとした空気が服に張り付くが、その風は冷たい。昔、夏は暑さの代名詞だったどうだが、今では、湿気の多い暑さと冷たい風、矛盾の代名詞だ。寒い。黒の薄い上着は熱を溜めるが風には弱かった。

 歩いていくうちに、ついたのは洋服屋のウィンドウの前。古びた店のライトは時折チカチカと光を失っている。それは終わりに近づいた心臓の鼓動。そのライトを一身に浴びて、小汚いマネキンが淡く微笑んでいた。
 何を笑っているのか。誰に笑っているのか。わたしは知らない。おそらくソレは新しかったライトに照らされ、若い女性達の羨望の的だったときもあったのか。だがわたしはそんな光景をみたこともないうえに、この埃の積もった床を見ればそんな場面は単なる妄想の産物だ。
 今は今を切り取った写真でしかなく、この暗がりには過去も未来も無い。今という瞬間だけが風に揺られてただよっている。目に映っているモノだけがイマ。一つソレに関してわたしに判ることは、ソレがライトと共に消えてゆくということだけだ。
 視線の先、木のドアノブには年代がかったCLOSEの木札が風に揺られて軽い音を立てていた。

 視線を戻すと、黒髪黒目の細目の顔がガラスにうつっていた。目の下にくま。げっそりと痩せこけた頬。わたしの顔。
 いや……虚ろな視線をあげればガラスと反対方向に全く同じ顔。角を曲がり、すぐに見えなくなる。黒髪黒目の細目。髪の長さも同じ、まったく同一の肉体的特徴。同一。同一のDNA。わたしの顔はわたしだけのモノではない。


 わたしはP−P。POT−PEOPLE。人間の腹ではなく試験管から産まれたステレオタイプ。人間が感情を失ったことにより、生産能率が下がったために作られた。有り触れた容姿、道行く人間を見れば必ず同じ顔と鉢合わせする。狭い土地で過去現在共に年間数万人生産。現在も量産中。
 よって必然。
 必然。
 わたしは風を避けるため、灰色のビルの合間に身を潜ませた。頭上は黒々とした雲。
 瞼を降ろす。それでも目の前に広がる同じ闇色。
 風がまた吹いた。

 あてがないが、目的はあった。目的はあるが、あてがなかった。果報は寝て待てとはよく言ったモノだが、果たして自分のあては果報なのかどうかは疑わしい。だからただただ歩いている。

  誰も捕まえたことのない蒼炎の魔女を殺す。それが今回の使命だ。

 【蒼炎の魔女】
 五年前に突如現れた犯罪者。やることなすことが奇天烈。宝石店に盗みに入ったと思えば、高価な装身具ではなく安い偽物のアクセサリーを盗む。かとおもえば、美術館では国宝級の展示物を盗んだ。町中にペンキで落書きを描く。金を空から降らす。銅像の額を光らせる。ラジオ放送をジャックする。銀行強盗をする。囚人を逃がす。聖夜祭にプレゼントをばらまく。そして、人を殺す。などなど数え切れず。そのうち重大な法的に立証されたものが九十九件だ。
 そのなかでもラジオ放送のジャックと器物破損が頻繁に行われている。壊す物は全て同じ物だ。つまり、D型P−P。わたしと同じ型のP−Pがよく破壊――殺されている。特別なP−PであるD型を壊すことが出来るほど魔女は強いのだ。
 神出鬼没。いつの間にか現れ、去る。しかしその姿はいつも蒼色に包まれていた。逆立つ髪が炎のようであることからか、彼女は自ら蒼炎の魔女と名乗った。感情をあらわに、高らかに笑って、怒って、騒ぐ、魔女。

 知り得ているのはこれくらいだ。誰も捕まえたことはなく、誰もその正体を知らない。何が目的なのかも、分からない。


 中央通りにでる。時計の針が四時を指し示した。
 古びたスピーカーが不愉快なノイズと音声をはき出す。
『四時になりました。四時のニュースをお伝えします』
 私は耳を澄ませた。
『最初のニュースです。昨日夜八時頃、ある大物政治家と思われる被害者の首が中央管理センターの前に置かれているのを職員が発見しました。警察は遺体の身元を確認するとともに、検出された指紋から犯人を蒼炎の魔女と判断。今回の事件で蒼炎の魔女による犯行は小さなものを加えて五百件を超しました。警察は事態を重く見て、D型P−Pを捜査に導入する決断に踏み切り……』
 私はその事件現場を繰り返し呟き、確認してからその場を離れた。もう一つ判ったことがあった。私がかり出された理由だ。私は理由さえ与えられていなかった。
 五百もの罪科をその命一つで贖うのか。不公平なのかどうかは考えなかった。ただ、魔女が人間だから許されるのだと思った。
 人間のことをなおしゃべり続けるラジオ。人はいても会話のない道の往来。
 町にラジオの声だけが響いてゆく。が、

 影がわたしの体に落ちていた。

「やーね。これだから僻みは。冗談もほどほどにして欲しいと思うわけ」
 中央管理センターにつま先を向けたとき、落ちてきた声。その声。内容。わたしは顔をあげた。時計の上に、ソレはいた。しゃがみ込み、こちらをのぞき込んでいる。
「ねぇ、あなたもそう思わない?」
 不可解な笑みを広げる蒼唇。人間では考えられない色の唇。わたしをみてその口角をゆがめた。
 蒼。蒼。巻き上げた髪。首に垂らされた後れ髪。蒼。蒼。蒼の甲冑ドレス。

 迷わずカプセルを取り出し噛み砕く。同時に袖から銃を引き出し、撃つ、撃つ、撃つ。女はすでに時計を蹴り、後ろに反転。アスファルトを蹴り、彼女の着陸地点に詰め寄る。薬の味が口内へと広がる。血に似た、苦い味。手のひらに収まる程度の銃が咆吼をあげる。着地した女はその全てをよけきった。それは化け物の動きだ。銃と人。どちらが早いか聞くまでもない。相変わらず揺れる後れ髪。
「あら、驚いた?」
 蒼唇はそう紡ぐ。語る言葉無い。握った銃で女を撲つ。素手で受け止められる。手首を返し、足で仕掛けた。つま先は天を貫いたが彼女のあごには触れもしなかった。重そうな革のドレスにもかかわらず女の動きはわたしの動きを遙かに超越していた。
 人を殺すため、ただそれだけのために、DNAを改竄されたP−PであるD型にとってこれは衝撃的だった。
 あご、胸、腹――正中線を中心に何度か打ち合うが、決定打にはならない。魔女は笑みを張り付けたままだ。わたしは距離を保とうと後ろに引く。が、女は初めて攻め寄った。顔が近い。吐息がかかる。瞳は、不思議と深い蒼。濡れたように光を反射していた。
「ふふ。次のエスコートは私の番かしら?」
 っ。
 唇に蒼――蒼唇がかすかにふれた。剛の戦での一瞬の柔。
 驚愕。わずかに鈍った動きに女は見逃さず膝でわたしの腹を撃った。緩んだ腹筋に深々と足が埋まるのが見える。口からよだれがこぼれる。足が地面から浮いた。しまった。人間を越えた早い打ち合いにもかかわらず彼女が片目を閉じたのがゆっくりと見えた。
「あなたのハートをねらい打ちってね」
 ふざけた言葉と同時に女の拳にわたしの心臓は打ち抜かれた。拍動が一瞬止まる。そのままわたしの体は――意識もとんだ。
 暗い。暗い。本当の闇に。




 何かが鳴っている。なじみのない音だ。煩わしい音。不規則な音階の連なり。闇の沈黙に沈むことを望む意識が無理矢理音符に押し上げられる。高い音。低い音。短く長く続く。潜ろうとするわたし。逃げ切れない。うっすらと瞼をあけた。

 目に鋭い痛みが走った。慣れない痛みに顔が歪んだ。理解を超えた事態だ。
 
 白。

 目にそれしか映らなかった。目の奥、網膜が悲鳴をあげ、わたしは目を閉じた。しかし、目を閉じても、見えるのはなじみある闇ではない。いや、闇、か。それは何とも言えない色合いの闇。黄、いや橙、赤か、それが焦茶の闇にへばりつき、白い残像を焼き付けられていた。そして、蠢く。ず。ず。ず。ず。闇の対流が起こる。
 逃げようと体を動かそうとしたが、寝台がしなっただけだった。体に圧迫を感じる。 縛り付けられているのか。わたしはいまの状況を一刻もはやく終わらせたかった。目を光から守りたかった。耳を音から守りたかった。静寂を取り戻したかった。ぶれる。世界があれくるう。脳を揺るがす。 頭蓋骨に響く。
 曖昧な平穏は打ち破られ、とがった音はわたしの身を刺す。頭が痛い。闇が闇でなく、耳障りな音はその勝利を誇るように猛々しく鳴り響き続ける。耳鳴り。うるさい。そう、うるさい。とめろ。このおとをとめろ。やみはどこだわたしをかくしわたしとともにあるやみはどこだ。このせかいをおおうやみはどこだ。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいだまれ――――

 カチッ
 その狂想曲はあっけなく打ち切られた。息をつく間もなくさらなる悪音がふってくる。
「起きなさい。――襲うわよ」
 わたしは飛び起きようとしたが拘束具に阻まれた。腕、足、腹、首が黒いベルトに締め付けられたる。喉が圧迫され咳き込んだ。
 頭はもやがかかり、まだ光に慣れていない目に浮遊感があった。分かることは目の前にいる女とここが廃屋ということ。かつては白かったと推測される壁は泥と埃にまみれていた。わたしは、魔女の腹の位置まである寝台に乗せられていた。そしてなじみのある臭いが漂っている。血の臭いだ。
「ふふ。残念ね」
 その女を観察した。蒼炎の魔女。蒼唇にかわりはない。が、その服はドレスから濃紺のTシャツとズボンに換わっていた。厚化粧の女は歪んだ笑みをはりつけたまま、わたしの上から下までじろじろと見ていた。その白い手をわたしの胸から腹へと滑らす。わたしは身じろぎしない。この女が何をしようとしても、いまのわたしにはなすすべもない。抵抗は無駄だ。わたしは下着しか身につけていなかった。無防備そのもの。不快な感触。下腹で女の手が止まる。
「でも、もうちょっと肉つけたほうが美味しそうね」
 無言。蒼い瞳は深く、なにを考えているのかわからない。魔女は人肉を喰らうのか。確かに動物性蛋白質の摂取は重要だ。
「……」
 女の瞳孔が大きくなる。何に昂奮しているのか。
 たとえこの女に喰われても、当局は魔女の死を諦めはしない。わたしの体には発信器がつけられている。持ち主の生体活動が止まれば死と位置の情報が送られる代物だ。ここが女のエリアだとすればわたしの死は無駄ではない。むしろ有益だ。ならば今死んだ方がいい。こちらの情報を流出も防げれる。そしてわたしは舌を噛――
「……っ」
 二度目だ。今度は舌までねじ込まれた。侵入者を噛みきろうとする。が、逆に舌をとられた。……あとは不本意な結果に流れ込んだ。
「ふふふ。私の勝ちね」
「……」
 ようやく二つの口ははずれ、意味もなく息が上がった。肺活量は多いはずなのに。腹立たしいことに、女はまったく息もきれていなかった。女はわたしを冷笑で見下ろした。
「あぁ、死んでも無駄よ。あなたの発信器、取り出したから」
 死んでも無駄、と念を押すように繰り返し、魔女は愉悦の表情を浮かべた。ゆっくりとわたしの胸に指を突きつける。胸にある聖十字を分断した傷跡。それは手術の痕だ。まるでなにかをとりだしたかのような痕。
「だって、あなたはもう、“死んでいる”のだもの」
 わたしは目を大きく見開いた。体に埋め込まれている発信器。その電波が途絶えればすなわち死を表す。魔女が言うとうりならば、わたしは死んだと当局に認識された。わたし――D846に付随している特権はすでに失われた。意味の無い認識証しかもたないP−Pは栄養補給を受けられない。P−P、特に暗殺型のD、DEATH型のP−Pが飲まなくてはならないカプセルも。

 それは、 D846 わたし の死だ。

 目の前が暗くなった。栄養は、人間と同じ物を摂取すればいい。しかし薬は当局にしかない。予備のカプセルは服の中だが、この魔女に取られているだろう。カプセルが切れたら、わたしは死ぬ。無意味に。

 死ぬ。

「っぐ!」
 それがどこから来た力か分からない。わたしは無理矢理にベルトを引きちぎり、女ののど笛を力任せに掴みあげた。骨が歪む音。湧きあがる感情はない。体だけが勝手に動いた。女の細首の感触が手に染みつく。その感触ごと潰そうとした。しかしそれは次の瞬間夢に消える。喉から直接振動がきた。魔女の蒼唇が動く。
 “おいたがすぎるわね”
 女の目は冷たく、わたしを無感情に見下ろす。それは痛みを超越した殺気。
「――――!!」
 激痛が体を貫いた。悲鳴をあげたが声にならない。女のつま先が胸の縫合部に食い込んでいた。音が聞こえるほど見事にめりこみ、容易に傷口は血を吐いた。あまりの激痛にわたしは女の首から手を離した。
 魔女はわたしの頭を掴み、寝台――おそらく手術台――に力任せに押し付けた。顔には何事もなかったかのように、歪んだ笑みを浮かべていた。

 完敗だった。だが、なにか、なにかを言わなくてはならない。
 理由なき衝動に頭を回転させた。なにか、なにかを言わなくてはならない。これからどうすれば生き残れるか。解決の糸口を回転は引き寄せる。

 わたしは睨む。睨む、睨む。D型のプライドを傷つけられたからではない。“日常”を壊された、止め止め無く溢れる激情。頭に地血が上り、物凄まじい鐘の音が鳴り響く。魔女の後ろにある窓ガラスにわたしの顔をうつっていた。眉間に、皺。鼻筋に折りたたまれた皺。目の下の皺。この醜い歪んだ顔を知っている。わたしを見たときの対象の顔。対象に押し付けた死の理由を聞いたときの顔。時として感情抑制剤でも押さえきれぬ衝動。これは、――“怒り”だ。
 普段ならば恐れおののいただろう。感情は禁止されている。いや、わたしにもそんな罪が組み込まれていたことに唖然としただろう。怒りは争いを起こす醜悪の根源だ。しかし、このときのわたしにはそれが一番この状況に似合っていると思ってしまった。
 思えばこの魔女に会ってからわたしは自分のペースを握れていない。判断を惑わせるのが、魔女の力なのか。

 わたしは、感情を持ち大罪を犯した人間を殺すという原罪を持った道具。それがD型。
 死が、血が、日常。善か悪かも分からぬ灰色の生きた人形。その安寧を取り戻すためにはなにをしなくてはいけないのか。感情のない平坦で歩きやすく御しやすい世界を求めた。簡単だ。誰かが耳元で囁いた。
 発信器が壊れた理由を証拠とともに当局に差し出せばいい。
 押さえつけられた体勢から、声を絞り出した。低く、しゃがれた声だ。“ 人間には丁寧語を使わなくてはならない”ことに初めて煩わしさを覚えた。それは奇しくもいつも仕事の前に告げる言葉と同じだった。

「貴女を殺します」

 殺して、その首を当局に差し出す。そうすればわたしは“生き返る”。わたしの殺意を浴び、魔女は冷笑を浮かべた。そして全く違う不思議な笑みを浮かべた。その笑顔の種類をわたしは知らない。そして魔女はわたしの宣言に向かい撃った。それはわたしが予想だにしていない言葉だった。

「そう、なら私は――あなたを笑わせるわ」





 を醒ました。目に飛び込んできたのは“Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ! ”。それは白い天井に乱暴に書かれた文字だった。橙色。その鮮やかさに目がくらんだ。
 ここはどこだ。わたしの部屋にこんな落書きはない。頭がはっきりとしない。喉に渇きを覚え、起きあがろうとすると胸に痛みが走った。思わず触れた手の下には、断絶された聖十字。何があったのかを思い出し、わたしは思いっきり顔をしかめた。

 そう、確か、無理矢理に麻酔をかけられたのだ。その後の経緯と今の状況がわからない。今回の寝台には拘束具は無かった。
 わたしは身を起こし、部屋を見回した。一言で言えば、乱雑。汚いのではなく、物があふれていた。特に用途不明な置物が多い。部屋が狭く感じられた。
 ベットの隣に椅子があり、その上には服が置いてあった。着てみるとサイズはぴったりだった。いつサイズを測ったのか分からないが、その時間は有り余るほどあったことは確かだ。
 窓からの日差しは淡く、鳥の鳴き声がした。鳥の種類から判断して、今は朝。前の任務を終えてから一日が経ったのか、と思うと奇妙なことだ。
 立ち上がり、気がついた。なぜ、わたしは自由に動けれるのか。足音をたてずにドアへ駆け寄った。ドアノブを捻ると容易に開いた。熱の籠もった風が呆然とするわたしの横を通り過ぎた。

 食べ物を焼く香りがした。音がした。視線の先には背を向けた魔女がいた。朝の淡光の中、料理を作っている。焼ける音の合間を縫う下手な鼻歌が聞こえた。音に合わせ、体と後れ髪が不安定に揺れた。髪は金に煌めいていた。

 その光景にわたしは目を細め――迷わず手近にあったハサミを首筋めがけて投げた。


 フォークとナイフが皿に当たる音が響く。
「料理してる人の背後から襲うなんて。意外に卑怯者なのね、あなたは」
「わたしはD型P−Pです。殺すことに手段は選びません」
 わたしのハサミは彼女の手刀に打ち落とされた。が、フライパンを持つ方の手がゆれ、その中身は見事に炎の中に投げ出された。
「早く是非とも食べなさい。それはあなたの朝食なんですから」
「…………」
 半分炭になった“目玉焼きとベーコン”はそのままわたしの皿にのった。そしてわたしは魔女と向かい合わせで席を共にしている。何故だ。魔女から今日の朝食に目を落とした。
 P−Pの食事は素早く摂取できる流動食だ。固形で食べることはない。ないが、人体の約18%を占める炭素原子をそのまま摂取するのではないことはわかっている。
「さぁさぁ、食べなさい。神聖な料理を邪魔した罰よ」
 そもそも何故、わたしは暗殺対象であるこの魔女と一緒に朝食ををとっているのか。しかも魔女が作った料理だ。現状の理解に苦しむ。
「いい? 私達は人様の命をいただいて生きてるの。感謝を込めて美味しくして満足しないといけないわ」
「卵は無精卵です」
 ダンッ、包丁が机に突き立てられた。魔女は不自然なほどに口角を歪ませて笑った。
「黙って、食べなさい。私を殺すのでしょう? 体力をつけないと私は殺せないわよ。あぁ、分かっているとは思うけれど、毒なんて入れてないわ」
 毒のことは心配してはいなかった。私を殺すつもりなら昨日の時点で殺せばいい話だ。
 “生き返る”ためには魔女の酔狂に付き合わなくてはいけない。が、わたしはこの奇妙な時間に居心地の悪さを感じていた。――馴れ合う、そう、殺す対象と馴れ合うことに違和感を感じる。わたしは当然のことながら、感情を表す人間と長時間いたことがない。
「それから、そのむっつり凶悪顔でその口調をは止めてくださる? 似合ってないわ」
「……人間にはこの口調でないといけないのです」
 魔女は呆れ返ったように眉を上げた。魔女の顔はすでに前と同じ独特な化粧が施されていた。
「なに? あなたは殺す相手にも敬意を示すの?  うわべだけの敬意なんて悪意でしかないわ」
「少なくとも、わたしは貴女に“悪意”を持っています」
「ああいえばこういう。まったく、このごろのP−Pはしつけがなっていないわね」
 フォークやナイフを使ったことがない。目の前の魔女の様子を盗み見て使い方を学んだ。わたしは焦げた部位をフォークの上にのせた。
「しつけのいい暗殺者というのもおかしな話です」
 砂を噛むような感触。はじめての人間の食べ物は炭の味がした。
 ふと目を上げるとなぜか魔女はわたしと似たような表情をしていた。

 ようやく食事が終わった。口に残る味を水で押し流した。魔女はすでに食事が終わってこちらを観察している。その蒼目はなにかを企んでいるようだった。
「……なにが目的なのです」
 魔女は一瞬顔をしかめ、繕うように小首を傾げた。
「蒼炎の魔女。貴女の罪科は五百に達しました」
「らしいわね」
「罪を償おうとは思わないのですか」
「罪だと思っていないわ」
「人を何人も殺しておきながら、貴女はそのようなことが言えるのですか」
 くっと喉で笑いを堪える音がした。わたしは魔女の肩が揺れるのを見た。魔女は無言で立ち上がり、自分の食器を持ってキッチンへと向かった。
 わたしは片手でナイフを握った。後ろから投げてもかわされたのだ。今投げても二の舞になるだけ。武器 ナイフを手の上で回しながら、わたしはどう使うかを考えた。不本意だが、接近戦では魔女には勝てないということは分かっている。もっとも得意な射撃――ライフルがわたしの部屋にあったが、“死んだ”P−Pの部屋はすぐに片付けられる。今すぐ戻っても、もう次のP−Pが入っているだろう。
 蛇口から水が流れる音。魔女は食器を洗い始めた。返事がないので、わたしは部屋を改めて見回した。殺風景なわたしの部屋とはほど遠い。物にあふれている。先ほどの部屋と同様、汚いというわけではない。整理整頓されていないのだ。高価と思われる壺から、道ばたに落ちていそうな石まである。魔女は統一という言葉が嫌いなようだ。壺は鈍器になる。トラップを仕掛けるのも良い。
 蛇口を捻る音。水が止まった。魔女は振り返らずに、わたしに話しかけた。
「自分のお皿くらい、自分で洗いなさい」
 あまりな要求に絶句していると、魔女は畳みかけるように付け加えた。
「いいこと? 昼食はあなたが作りなさい。もちろん私の分もよ」
「………………何故」
 何をさせたいのか、全く分からない。そもそもわたしは料理をしたことがない。いや、包丁という武器をわたしに与えるというのか。どれほどD型を甘く見くびっているのだ。料理に毒をいれると心配はしないのか。理解不能。魔女は背を向けたまま、こちらを見ない。
「拒否権はないわ」
「貴女に従う理由はありません」
 魔女は肩をすくめた。
「ねぇ、お昼ごろじゃない?」
 何がですか、と聞くと魔女は皿を拭いて網棚に立てかてた。
「何って、D型専用のお薬が必要になる時間」
 絶句した。何も言えずにいると魔女はひらひらと手を振った。
「薬は一週間分、よね」
 脅されている。薬がなければ肉体は衰え、死に至る。いまのわたしではあと数時間で魔女を殺すのは難しい。
 魔女の言うとうりに動くか、動かないか。わたしは苦渋の選択を強いられた。苦渋。どちらを選択するかではない。そうせねばならないからこそ、苦渋なのだ。
「…………わかりました。しかし、わたしは料理をしたことがありません」
「あら、そう。それは大変ね。冷蔵庫に有る食材を自由に使っていいわ」
 その一言で、私は一人でせねばならないとわかった。完璧に任務をはたさなければならないP−Pとしては、きちんとしたものを作りたいのだが、それは困難になるようだ。魔女はわたしがいた部屋とは違うドアに手をかけた。未だにこちらを見ない。魔女が十分に離れていることを確認し、わたしは皿を持ち警戒しながら流し台へ向かった。
「あぁ、そうそう一つ言い忘れてたわ」
 顔を向ると、振り向いていた魔女は、感情のこもっていない笑みを浮かべていた。その瞳は暗く翳り深海――死が満ちた、海の終末を彷彿とさせた。異質な存在に背筋があわだった。

「……何人も殺しているのは、あなたもでしょうに」

 ――――水が流れる音だけが部屋に響いた。わたしの皿が、魔女の皿にあたり、カツンと小さな悲鳴を上げた。


 魔女のは何が言いたかったのか。皿を洗い終えたわたしは、タオルを濡らし、絞った。これも十分凶器になる。
 魔女の思惑が全く分からない。罪人を殺すのはD型P−Pの使命である。それを罪だと断ずるのは間違っている。D型P−Pを生み出したのは人だ。人間が必要としたモノ。わたしは必要とされ生まれ、必要とされたことを実行しているにすぎない。全ては人のためだ。それがわたし、いや、全てのP−Pの存在理由であり存在意義。あの冷ややかな侮蔑の笑みがかんに触った。
 魔女は、人であるのになぜP−Pを否定するのか。冷蔵庫の中身は古い物から最近買った物まで様々にあった。何かを作るには恐らく十分足りるであろう。朝食も二品しか使っていなかったはずだ。
 人と違う考え方を保つ。だからこそ、魔女なのか。


 殺す前に捕まってしまった愚かなD型など、わたしくらいのものだろう。だが、ふがいない状況であっても魔女に一番近い場所にいるのはわたしだ。任務は継続できる。
 これからどうするか。最終目的は蒼炎の魔女を殺す事だが、それに至る行程を考えなくてはいけない。
 魔女が出て行ったドアを見た。わたしがいた部屋はこの部屋の続きだった。普通の家の構造を考えるとあのドアのむこうは外に繋がっているはずだ。
 料理を始める前に一通りこの部屋を調べたが不審な物は一切なかった。隠しカメラもなければマイクもない。ここを蒼炎の魔女のアジトと考えるのは早計だが、しかしその一つである可能性は高い。わたしをここに連れてきたところを考えるとアジトではない可能性もあるが、それにしてはここは生活臭がする。本拠地だとしても、それならばなぜわたしをいれたのか。
 理解不能。
 壁に掛けられたカレンダーを見た。八日後の日付に大きく赤い丸が付けられている。カプセルが切れることを表しているのだろうか。
 本棚を見ると、大衆向けの娯楽本、子供向けの絵本から多岐にわたる専門書まであった。全てのジャンルを貪るように、あるいは見えたものをとにかく集めたようにも思われた。ここは全く統一がない。性格や趣向の方向性が把握できない。これも魔女の防衛策なのだろうか。わたしは料理の本を見つけた。使い込まれた本は調味料や出汁で汚れていた。
 窓の外は空が広がっていた。朽ちかけたビルの森が眼下に展開している。恐らくこの建物が一番高い建物だ。この光景からここは、シティーの南に有るゴーストシティーだろう。
 天に近い分いくらか明るく感じられた。光を通さぬ分厚い雲の鎧はもぐもぐと動き、それは天を支配する異形の者を思い起こさせた。しかし、一様に灰色だと思っていた雲は淡く梔子色をたなびかせ、白に限りなく近い灰色はその上に確かに太陽があるのだと示していた。
 

 包丁を手に持った。それは今まで人間の体に滑り込ませるだけの道具だった。綺麗に研がれた刃の直線に陰気な顔が映った。
 料理の本を見る。必要なモノが書かれていたがどれがどれだか分からない。ニンジン? タマネギ? 写真に載っているのは完成品のみ。冷蔵庫を開き、安堵した。そこには野菜室と書かれた段があったのだ。わたしは手前にあった二つを手に取った。
 次は“野菜を切る”。なにやら切り方に名前が有るらしい。口に入ればどれも同じではないのか。皮をむく?
 朱い円柱型のものを中心で切った。固い。断面を見ても外見と似たようなものだ。
 皮はどこだ? 血肉がないのにどこに皮があるというのか。首を捻って、次の野菜(と思われるモノ)を手に取った。同じ野菜というカテゴリーに有るのだから、別のモノも見たら分かるかもしれない。
 変な球を潰したような形の茶色の物体を取った。かさかさしている、枯葉の感触と同じだ。人間はこんなモノも食べるのか。先と同じように上から包丁を振り下ろす。ざざざく。全く違う感触。手を止めていると何層にもなった輪が見えた。なんだ、これは。
 包丁を横に置くと、ソレは倒れ、円状にばらばらに分解されてしまた。わたしは輪切りにした覚えはない。ならば最初からバラバラだったのか。どうやってくっついていたのだろうか?
 いや。そんなことより、野菜だとおもったが、違うのか。人間なら、どれを切っても同じだ。動物を切っても似たようなモノだ。おかしい。同じ種族なのに、違うのはおかしい。
 色も形も、切った感触も、中身も、違う。違う。違う。
 具体例が少ないのが奇妙な結果になった原因だろう。わたしは冷蔵庫の野菜室から違うものを数個取り出した。妙な形の、緑色の物体。何個かの、すべすべした膨らみをさわった。朱はごつごつ、茶はがさがさ、緑はつるつるだ。光の反射も違う。
 包丁を振り下ろす。断面を見た。今度は空洞だった。その中心に白い筋がはいっていおり、小さな粒々が集まっていた。虫にでも卵を植え付けられたのか。虫がたかるのは光源と腐敗物。これは光源ではない。わたしはそれをそのままゴミ箱に入れた。腐ったモノはタベレナイことぐらいは知っている。
 次に手にしたモノは、どう見ても草だ。深い緑色の長く、細い葉。根本は白い。草だ。草は地面に生えるものであり、冷蔵庫に植え付けるものではない。食べるものではなく、放置するものだ。
 どう考えても、おかしい。
 草を切っても意味がないのでわたしはそのまま窓の外にだした。土の覗いたアスファルトの上に落ち、そのまま根付くといい。
 環境問題はシティーにおける問題のなかでも上位にあった。
 今度は木の枝だった。念のため包丁で切ってみたが、今までで一番固く、断面を見ても枝のようだ。不可解だ。わたしは首を捻りつつ窓の外に投げた。
 次は小さな緑の木だった。葉だけでなく、幹や枝まで浅い緑だったが、根はすでに切り取られていた。根が無くともこんなに小さくとも立派な木だった。そういえば、盆栽というものを聞いたことがある。木を小さな鉢にいれて好きなときに好きなように斬るというハサミの練習台だそうだ。なるほど、これか。おそらく鉢がないから冷蔵庫で保存していたのだろう。
 納得して、冷蔵庫に戻した。
 まだまだ種類はあった。わたしはもくもくと切り続け、あるいは捨て、あるいは戻し、あるいはそのままにした。
 全ての感触が違う。
  今まで 人肉の感触と、違う。その違いに、いつしか我を忘れていた。

「…………これは一体どういう事?」
 その声で、一気にわたしは現実 正気に戻った。
 気がつけば、魔女がドアの前で目を大きくしていた。何を驚いているのか分からない。
 自分の手をみる。細切れになった朱いものが散らばっていた。そのまわりには今まで切った5oほどの正方形が山になっていた。違うもの別に山は分けた。
 冷蔵庫の中身は入れ直したモノ以外は全て外にある。全く違うそれらはわたしの手によって細切れされた。一回斬ったモノをもう一度切り直したのだ。結果、どれも本当に違うことが分かった。手応えのあるものもあれば柔らかいモノまであった。これほど多くの様々な感触に触れたのは初めてだった。
「蒼炎の魔女、どれが野菜なのですか?」
 魔女の顔が困惑から怒りに引きつった。
「どれも違うのです。どれも同じではないのです。色も形も。中身も。切った感触も。どれが野菜なのですか?」
 そう言うと、魔女は怒りを解き、力を抜いた。
「はぁ。やっぱり料理任せたのは一足飛びだったかしら。【あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者はあやまちを増し。後者は新しい後悔をつくる。】BYゲーテってことね」
 その呟きは小さなモノだったが、わたしの耳にはちゃんと届いた。
「蒼炎の魔女。質問に答えていません。これでは料理ができません」
「……OK、私が悪かったわ。P−Pが食物の知識をほとんど持っていないことを忘れていたわ」
 魔女は両手を挙げて、近づいた。そして山脈を為す物体に眉を顰めた。
「……ちょっとまって。あなた、どれくらい野菜を使ったの?」
「どれが野菜なのですか?」
 魔女は一呼吸置いてから、一言一言強調して答えた。そこまでしなくてもわたしの耳は正常に機能している。
「冷蔵庫の野菜室に入っているモノ全てよ」
 ならばほぼ全てです、と答えると彼女は血相を変えてすぐさま野菜室を開けた。
「な、なんでブロッコリーとカリフラワーしか残ってないの!?」
 そう言う名の木なのだな、と納得して答えた。
「盆栽なので」
「どうして盆栽!? どこが盆栽! なんでそんな微妙な知識は持っているの……!」
「暗殺対象の趣味の欄に書かれていました。対象の嗜好を把握しておくのは基本項目です」
 素敵な暗殺者さんねーうふふーと魔女は呟いた。脳に支障があるようだ。なるほど、魔女の思考回路が読めない理由が分かった。もともと壊れているのだ。
「白い方はちゃんと日に当てて育てると良いと思います」
「それをするとカリフラワーの意義がないわね。まぁ、いいわ、あなた。この山を一つ一つ分けてビニール袋に入れて頂戴」
「何故ですか」
 魔女は腰に手をあてて、わたしに指を突きつけた。
「あなたは一週間分の野菜を一瞬にして細切れにしたわ。このまま全部食べるのは無理。このまま放置すれば全て腐るわ。ここで問題。死体を腐らせないようにするためにはどうすればいいかしら?」
「血を抜き乾燥させ防腐剤をいれます」
「殴って良い?」
 何故だ。
「……凍らせます」
「ビンゴよ、チェリー。冷凍するから手伝いなさい」

 そしてわたしは作業を進めている。無言の時間が過ぎる。
「蒼炎の魔女」
 返事はない。ゴミ箱に入れられた野菜を見つけ、怒り、外に捨てたものがあると知り、激怒してから一言も口を開いていない。
「蒼炎の魔女、どうして、すべて野菜であるのにすべて違うのでしょう」
「違うモノだからよ」
「ですが野菜という名を与えられています」
「野菜というのは食用とする植物の総称なの。あれは皆植物なのよ。動物という名でも獣から魚、は虫類や軟体動物とか姿形が違うように、植物も姿形が違うわ。むしろ植物のほうが多様ね」
「…………何故ですか」
「違わないと生きていけなかったから、かしら。植物の中でも生存競争はあるわ。競争相手に勝てなくとも、競争相手が生きられない場所で生きれば、勝ちも負けもなく、共に生きていける」
 だが、P−Pは同じだ。いくらかのタイプがあるが、そのなかでも同じだ。DNAも同じ。同じ。しかし、生きている。
「あら、でも私とあなたも同じだわ」
「人とP−Pは違います」
「どこが?」
「人は神の模倣です。P−Pは人の模倣です。人は子をなし、P−Pは生殖能力を持ちません。人は自らの寿命を持ち、P−Pは決められた寿命をもちます。人は幸せになるべき存在です。P−Pはただあるべき存在です。ゆえに貴女とわたしは全く違うカテゴリーです」
 P−Pは十五才の姿で生み出され、そのときに生殖器を切除する。
 そして、P−Pの寿命は決まっている。わたしも自分が停止する日を知っている。すべてのP−Pは自分の停止する日を教えられる。P−Pは道具だ。年老いた道具など役にはたたない。外見二十五才。それが限界だ。他人から見ればわたしは二十歳頃に見えるだろう。ふと、蒼炎の魔女をを見た。彼女はわたしよりも“年上”のようだ。化粧が濃いせいかもしれない。
「それがどうかした?」
 意外な返答に作業の手を止め、魔女をみた。彼女はほんとうに不思議なのか、幼い少女のように小首を傾げていた。
「確かに人の平均寿命はあなたより長いかもしれないけれど、あなたより早く死ぬ人だっているわ。男であれ女であれ子供を作れない人もいる。人とP−Pの何が違うっていうの」
「P−Pは人工のものです」
 魔女はそれこそ冗談を聞いたように破顔した。わたしの鼻に野菜まみれの指を突きつけた。
「あら、人間だって、人間がつくるのよ」
 そう言う意味ではない。P−Pは試験管から作られる。産まれるわけではないのだ。そう、生身のロボットと同じだ。
「そうはいっても、私とあなたが並んでいたら、人間か、P−Pか区別がつかないでしょうね」
 違う。わたしはシャツの首元を下げた。そこにあるのは刻印だ。胸元を開いた服を着た魔女の胸と比べるまでもない。わたしの胸には手術によって醜く裂かれた十字と名が引きつっている。魔女の胸は傷一つ無く、きめの細かい肌で覆われている。
「そんなの、ただの傷よ。消えにくいだけの、ただの傷」
 頭が白くなった。手は包丁を握り、脇腹を狙う。水平に、先が心臓を狙う。魔女はこちらの目から視線を離すことなく手刀でたたき落とした。カランと音を立てて包丁は床に落ち、魔女の足がその回転を止めた。微動だにせぬ蒼瞳に宿るものは鋭利な刃ではなく、深い光。圧倒された。
「だって、そうでしょう? あなたはD型のくせに人間の、しかも女に勝てないもの」
 口の中に血の味が広がった。口を開く。唇の裏にはっきりと歯形が付いたとわかる。己の全てを否定された。P−Pは人にその命を左右されている、脆弱な存在でしかない。一点物の人間と大量生産のP−Pの何が同じだというのか。
「これはわたしが存在するために必要なものです。生きるために。ただあるべきために」
 言い終わる前に、魔女は言葉を重ねた。緊張が解けない。
「“私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。”BYルソー、よ。あなたはまだ生きてなどいないわ」
 言葉を失った。何が言いたいのか、考えが一瞬ひらめいた。まさか。
 じっとりと汗が吹き出した。まさか、まさかまさか。
 今までの魔女の行動と言動を振り返る。疑惑は固まり、確信へと形を変えていく。異物が体内に無理矢理入ってくる悪寒か、鳥肌がたつ。
「貴女はP−P わたしを人間と同質だと思っているのか」
 魔女は小さく喉を鳴らした。
「やっと敬語をやめたわね」
 否定はない。目を瞠るわたしに魔女は背筋を伸ばした。細切れの野菜が入ったビニール袋を持っているというのに、その姿はなぜか眩しい。
「ただ、私はP−P あなたに人と変わらないと分からせたいだけよ。あなたたちの顔って陰鬱で、見てるとうんざりするのよね」
 だから、笑わせるわ。そう、己の言葉に同意するように魔女は固く肯いた。
 狂っている。狂っているっ。 家畜に愛情を注ぐ者は確かに存在する。しかし、家畜を人間だと思い、人間として扱う者はない。そのような人間がいたら、狂っていると人間は答えるだろう。
 変な思考回路? 言動? 行動? そんなものではない。そんなもので異端者 魔女と名付けられたのではない。根本の概念が違うのだ。既存のものをひっくり返す。喉が鳴った。当局が何故この女を危険視するのかわかった。理解した。P−Pが家畜であるからこそ今の社会がなりたっているのだ。P−Pが人間と同じなどと言っていては体制が全て崩れ、平安は混沌へと堕ちてゆく。それが彼女の感情論ならばさらに、混乱を巻き起こしてゆく。わたしの脳裏では、研修のため見た戦争と犯罪の光景が流れた。

 消さなくてはいけない。これは指令の確認ではない。P−Pの根源としてある規律、すなわち“社会を脅かす者は殺すべし”だ。

 魔女はわたしの決意を知ることなく、話は終わったとばかりに別の話題に移った。
「さぁって、オムレツでもでもつくるか」
 手伝いなさいよ。と、私にニンジンとタマネギの袋を差し出した。そう言えば昼食を作るのであった。作れなかったのだから、薬はどうなるのだろう。魔女は察したのか、苦笑した。
「薬はあげるわ。今回は私の落ち度ですからね」
 そう言って包丁を足で蹴り、器用に上へ飛ばした。吸い込まれるように魔女の手に収まる。魔女はそのまま私に包丁を差し出した。蒼唇の端がくいっと上がった。
「洗ってくださる?」
 虚を突かれた。命を狙ったというのに。
 用心深く包丁を見た。刃に突いているのは血ではなく、野菜の欠片。
 今日、魔女が入ってくるまで夢中――そう、夢中になっていた。切っても切っても違う感触。切っても切っても血の臭いはしなかった。切っても、切っても。
 包丁を見つめながら、口が勝手に動いていた。自分でも驚く。声は小さく、かすれていた。
「蒼炎の魔女、今日、初めて生きているもの以外を切った」
 魔女は、またあの不可解な笑みを浮かべた。
「そう、よかったわね」



 を醒ます。相変わらず目に飛び込んでくるのは“ Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ!  ”。白い天井に乱暴に書かれた文字。これは魔女の皮肉なのだと最近気がついた。

 魔女と生活するようになって五日になる。変わったことと言えば特になく、ことごとくわたしの攻撃はかわされ、蒼炎の魔女の不敗伝説をより確かなものにしたくらいだろうか。いや、それは単なるわたしの希望的観測だ。変化はわたしに起こっていた。
 わたしは料理を全面的にまかされるようになっていた。材料と名前の一致、道具の使い方、食材の切り方がわかったわたしにとって料理は本さえ見れば簡単なものだ。味もこの頃わかるようになってきた。
 掃除もまかされた。といってもさほど散らかすことがないので、後片付けと言った方がよいだろうか。
 その発端は三日目、小麦粉を使った粉塵爆発計画。ばらまいたあと、量が圧倒的に少ないと気がついたときには遅かった。わたしは角を生やした魔女の監修のもと掃除を徹底してやらされた。
 物に溢れているというのに、魔女はきれい好きだった。きちっとしていないと気が済まない、と豪語するが、それならば物をおかなければいい。やはり不可解だった。もっとも、部屋が汚いよりはましだ。わたしは乱雑な部屋よりも整頓された方を好む。
 掃除をするようになって、ただそこにある物体ではなく、ここの物として見るようになった。季節のイベントの物や植物を象った物など色々あるが、その中でも圧倒的にあるのは動物だ。動物、とくに犬と猫の置物が多い。感情が豊かだからと、嫌な理由を聞いてしまった。愛玩動物の類は人間に感情をもたらすという理由で廃棄されている。

 魔女のことであと分かったことといえば、やたらと名言を言いたがるところだろうか。
 わたしが時間を持てあましていれば、「君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。BYシェークスピア」と言って鼻で笑う。わたしが神の教えで魔女に説教ををすれば、「宗教は、人間一般の強迫神経症である。BYフロイト。お医者にでもみて貰う?」と相手にしない。あまりに頻繁だったので、聞いてみた。
「なぜ、他人の言葉を言いたがる」
 わたしはもう敬語を放棄していた。魔女はふむ、と軽く頷き、腕を組んだ。
「私が今、なにか上手いこと言ったらそれは名言かしら?」
 お得意の質問に質問を返す行動に出た。わたしは首を横に振った。魔女は肯いた。
「そう、無理ね。でも、たった一人の人間が発した言葉には違いないわ。ゲーテだろうとアインシュタインだろうと、私だろうと」
 そこまで自分が偉大な人間だと思っているのか。
「偉大だけれど、そこまでじゃないのよね。って、何よ、その目」
 別に。いつも通りだ。魔女の唇は尖って横に広がった。
「とにかく、名言っていうのは、“偉大な人”が言わないと世に伝わらないわ」
 それはそうだろう。肯くと、魔女は名言の名の字はは有名人の名だと、付け加えた。それは違うのではないか。
「でも、そういう面もあるでしょ。でもね。偉大な人だからって言葉が残る訳じゃない」
 魔女は区切った。
「名言はこの世の真理を顕現化したものと思っているの。だから残っていくんだわ」
 真理を見つけたから偉人となれたのか、偉人となれたから真理をを遺すことができたのか、それは謎だけれど。
「私はね。この世界を楽しみたいの。知りたいの。だからできるだけたくさん、他の人がどんな風にこの世界を見ているのかが知りたい」
 このときわたしは魔女の本棚を思い返した。全てあさったような様々なジャンル。飽くなき探求心が求めたのか。しかし、彼女のやっていることは無意味に思えた。魔女の語る偉人達は、感情のある時代に生まれ、生きた者達ばかりだ。今の世界とは全く違う波乱の世界を生きた人々だ。今はさざ波しかない。
 感情のない世界、平穏と安寧と停止に満ちたこの世界に、何を見出そうというのだろうか。

 わたしは、知りたいと願うほどこの世界を素晴らしいものだと言えない。この世界の良も悪も判断できない。したこともなければ、することを許可されたこともない。考えるのは人間がすることで、P−Pは判断に従うだけで良い。たとえ、聞かれたとしても答えることは出来ない。しかし、灰色の世界に色を見出そうとしている魔女が愚かに思えた。
 雲に覆われ、光はなく、植物は色を失い、動物は駆逐されている。人はただ生きて、彼女のように笑うことも怒ることもなく、だからこその平和に怠惰で身を任せ、生き、死ぬ。砂時計の砂が落ちてゆくように静かに淡々と時は流れていく。何も変わることはない、灰色の世界。黒が増えても白が増えてもその色はただの“灰色”。セピアにもならない。
 ……何をいっているのだろう。これでは魔女のように感情が良いものと思っているのと同じことだ。いけない。また、感化されている。
 この感化は危険なレベルにまで高まっている。はやくしないと。はやくわたしのなかから魔女を追い出さなくてはいけない。
 なのに、わたしはいつまでたっても魔女を殺せてはいない。むしろ、慎重に物事を運ぼうとして命を狙う機会が大幅に減っている。そして彼女が“生きている”のを感じてしまう。断ち切らなくてはいけない悪循環。
 感情を押さえる薬を飲んでいないせいだ。指針のないわたしにとって確かな存在である魔女は強烈だった。やはり薬は必要なのだ。こんな不安定な精神ではいけない。己を御することに長けていたと思っていたが、違ったようだ。わたしはあまりに脆く弱い。体まで、最近重りをつけたように怠い。

 起きあがり、どこからともなく置かれる着替えを手にした。洗濯は魔女の領域だった。魔女はほとんどの時間をリビングで過ごす。ソファーで読書したり、ラジオを聞いている。そしてわたしの目の前でラジオの電波ジャックをするのだ。あのときはもう少しで殺せたはずなのだが、薬が切れかけていたときだったため、そのまま崩れた。
 服は魔女の気分次第で変わる。大抵がTシャツとジーンズだ。ただ、ジーンズは伸びが少なく、動きにくいのであまり好まない。そして、彼女のものとおそろいであることも、気にくわない要因の一つだ。ペアルックだと笑っていた。笑い転げていた。ありがたいことにスカートはだされたことがない。履く気もしない。
 わたしは置物の位置を変えた。朝が来る度に変えている。強いて言うならば、時間の経過を忘れないため、だ。手にしたものは、伸びをしている黒猫。その顔の目は糸のように細められ、上機嫌、だ。それを窓際に置いた。窓際に置かれた置物、ぬいぐるみは五つ。そろそろ、薬が切れる。D型を生かすための薬が。

 D型は殺人を許可され、殺人のために体を強化させている。それを維持するのがわたしが魔女に取り上げられた薬だ。
 しかし、その薬はそれだけのためではない。
 ごくごくまれに、P−Pが犯罪を犯したり、P−Pとしての道に外れたりする。労働力となるW型や人間の介護をするH型などの普通の人間能力しかもたないP−Pならば、D型で処理できる。しかしD型が暴走をすれば止められるものは限られてくる。そのような無駄な労力を省くために、薬を使う。薬が切れれば、その力は衰え、死ぬ。D型が反乱しないための抑止剤ともいえた。
 その薬もあと、二日で切れる。そうしたら、わたしはどうなるのだろうか。そして、わたしはどうするのだろうか。答えはまだでていない。魔女は何も語らない。それがさらに落ち着かない気持ちにさせた。

 服を着て、部屋をでた。ふっと柔らかな香りがしてくる。既視感。台所に目を向けると、魔女が料理をしていた。料理はわたしに与えられた仕事だったはずだ。魔女も殺せぬがゆえにあまった時間は料理に注ぎ込まれていたといっても過言ではない。つまるところ、わたしは料理することを気に入っている。それを奪われたと感じるのはおかしな事だろうか。
 知らず、その気持ちが顔に出ていたようだった。魔女はたまにはいいでしょうと苦笑して、皿を並べた。わたしにはリンゴを投げ渡した。わたしは黙ってさっと皮をむき、皿にのせた。
 感情を抑制する薬を飲んでいないせいでわたしの思っていることは全て顔に出てしまう、ようだ。少なくとも魔女には分かるようだった。顔に出ないように努力したことなどないわたしにとってどうすれば感情を押し込めるのかわからない。滲み出る感情は結露を思わせた。知らない間に生まれ、確実に存在するもの。そしてなにより煩わしい。
「ねぇ、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
 その爆弾発言に、わたしはとてもわかりやすい行動を起こした。むせる。これは流動食ではあまり起こらない。
「そっ」
 一咳。水を飲む。
「それはわたしを外に出すということか」
「失礼ね。私、監禁した覚えはないのだけれど」
 リビングから出られない状況を作ったのは貴女だ。鍵がかけられているドアを無理矢理開けようとしても無駄だった。そして窓から出れば即死である。
「冗談よ。笑うところよ」
 わたしが薬を飲まなくなって覚えた感情はいらだちと怒りと困惑だけだ。それよりも、先ほどの話に戻したい。魔女は軽い調子で繰り返した。
「買い物に付き合いなさい」
 命令形だ。似合っているが、傍若無人ぶりに力が抜ける。眉を顰めると、魔女は付け加えた。
「食料の貯蓄が切れてきたのよね。買い出しに行かないといけないわ。量も多いから、手伝って欲しいの」
 ん。一週間分あると言っていなかっただろうか。細切れにした野菜を思い出し、軽く落ち込んだ。知らなかったではすまないと、料理をし始めたわたしには理解できた。
「あれは私にとっての一週間分なのよ。あなたが来たから減りが早いの」
 なるほど。わたしは納得したが、明らかに魔女の方が大食いである。いや、べつに問題があるわけではない。
 しかし、驚いたことに、わたしにはどうも、買い物に行く魔女というものが想像できない。この四日間、長い時間同じ部屋にいたが、彼女が 不可解な存在 魔女 であることに変わりはない。買い物かごをさげた魔女。やはり不可解だ。
「行くの? 行かないの?」
 行くに決まっている。外に出るのは久しぶりだ。そして何より、心の中で呟いた。外の方が、油断をつけるかもしれない。
 わたしは手の中の果物ナイフを握りしめた。


 どこにいくのだろう。久々に外の空気を吸ったわたしは、風でなびく髪を押さえた。わたしの支度は靴を履くだけで終わる。
 基本的に食料は配給制である。しかし、感情を隠そうとしない魔女が配給場で捕まらないはずがない。
「どこって、闇市よ」
 魔女はあの、装甲ドレスを身に纏っていた。わたしに同じ服を押し付けなかっただけ、ありがたい。靴はわたしが慣れ親しんでいたあの灰色のものではなく、新しいブーツになっていた。しかし、蒼色。偏執的なまでに蒼にこだわる理由をわたしは聞いていないことに気がついた。
 魔女は大きなリュックを背負った。何が入っているのだろうか。
 何もせず、その場に立っていたら同じ大きさのリュックを渡された。その意味は明白だった。重い。瓶が擦れ合う音が響く。
 
それを背負う。一際大きな音が鳴った。丁寧に扱ってよ、と文句を言われるが、わたしにとって気にすることは別にあった。
「闇市……」
 …………本来ならば取り締まりをしなければならないのだが、D型の資格を失っている今となってはなすすべもない。魔女を殺して復帰したのちに潰す。闇市を取り締まったなら、わたしの汚名も返上できるだろう。
「暴れたら気絶させて担いで帰るから」
 片方の眉をあげたわたしに、魔女は念を押した。また、と。そういえば最初に拉致されたとき、どうやって移動させたのかと思ったが……この魔女は見かけによらず怪力のようだ。
 ゴーストシティー、死んだビルの森の狭間を縫いながら、歩いていると、声がした。歓声、と頭の隅で言葉が浮かんだ。それは一瞬の音ではなく――
 前を歩いていた魔女が振り返った。その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいる。わたしはただただ圧倒されていた。進むことも下がることも出来なかった。衝撃を受け、その場に突っ立っていた。
「ようこそ、 感情の坩堝 闇市へ」
 声が、怒声が、奇声が、喚声が、叫声が、笑声が、ありとあらゆる感情の発露、いや渦がわたしの全身を容赦なく飲み込んだ。

「あなたって結構、ひよわね」
 うるさい。ここまでの大音量と人の荒波に揉まれたことはないのだ。わたしはどうやら人酔いをおこしていた。ビルとビルの狭い間に屋台の店がびっしりと敷き詰められ、その間を人が、ひしめき合っている。大勢の人間のあいだを歩いたことはある。しかし、こんなに人の流れがてんでばらばらではなかった。静かに、ほぼ同じ早さで、その中を歩くのはたやすかった。
 重い荷物と気分に足下がふらつく。すれ違う度に、人の肩にぶつかる。文句を言われた。気持ちそのままの表情を向けると、何故か何も言わずに去っていく。
 魔女を狙うどころの話ではない。只でさえ最近は体の調子がおかしいのだ。まず、冷静に、平常心を取り戻さなくてはならない。話はそこからだ。
 感情が争いを巻き起こすという初代総帥の言葉は正しいと実感した。
「大丈夫? もう、っあ、はぁ〜い、お元気?」
 魔女が突然、気色の悪い声を上げて、屋台へと近づいた。クダモノが――果物が売られているようだ。魔女は勝手に果実を手に取り、食らいついた。その手にはわたしが持っていたはずの果物ナイフが光っていた。もう何か言う気はなかった。これが自暴自棄という社会問題か。
「ん、なかなか美味しいわね。はい、お代」
 店の主人、なかなか恰幅の良い中年の男は魔女に苦笑した。だが、苦みだけでなく親しみも込められている。
「おいおい、金払ってから食べてくれよ、シイナ」
 不可解な言葉を聞いた。思わず繰り返した。
「シイナ?」
「私の名前よ。なに? 蒼炎の魔女が名前だとでも思ってたの?」
 さも当然のように――いや、本人にとって当然であるのだからそれで正しいのだが――魔女は目蓋をぱちぱちと大げさに瞬かせた。
 魔女に名前があるという当たり前のことに思いつきもしなかったことに、暗殺者としての矜持が傷ついた。魔女は人間なのだ。名前があるのは当然だ。そうか。それもそうだ。四日間も同じ空間にいながら、名前を知らなかったとは。
「あら、あなた。聞かなかったでしょう」
 それを言われると返す言葉がない。呆れ返った魔女――シイナ――と肩を落としたわたしを見比べて、主人は声を上げて笑った。
「おいおい、シイナ、あまり虐めてやるな。で、君は新入りかい?」
 違う、と言う前にシイナが肯定を返した。
「そうよ。よろしくね、デク」
 主人、デクは愛想良く肯いた。感情抑制剤を飲んでいないのは明らかだ。この闇市は感情論者達の交流の場でもあるのだろう。
 デクは、彼には当然でありわたしには予想外の質問をした。
「で、君の名前はなんていうんだい?」
 思考が停止した。わたしはまぎれもなくP−Pである。P−Pはどの型であろうと同じ相貌をしている。全ての型が同じ人間のDNAを基本構造にもっているのだ。よってわたしの顔はこの国に何十万人と存在する有り触れたものだ。型が分からなくともすぐにP−Pだと分かるはずだ。なのに。
「わたしは」
「あー、名前ね。ハシムよ」
 P−Pだと申告する前にシイナが勝手にそう言っていた。再び、停止。
 ハシム――D 846 ハシム
 安直。
 いや、そういう問題ではない。
 固まっている間に、デクは陽気に頷き、わたしに手をさしのべた。
「よろしく、ハシム」
 シイナとは長い付き合いでね。そう言うデクの目は、どこか魔女に似ていた。あの不可解な笑みと同じだった。
 何故か否定できなかった。そしてわたしは差し出された手を、じっと見た。この手の目的は分かる。分かるが理解できない。
 どうしたものか、と自然と魔女に視線を投げた。無責任に笑っていた。今度は手を貸さないようだ。手を握るべきなのだろうか。しかしわたしはD型だ。避けられる存在だ。
「ぶ。あははははは!」
 突然デクが大きく出っ張った腹を揺らして笑い始めた。この男は笑いすぎなのではないだろうか。その割には腹筋は鍛えられていないようだが。
 デクは手を引いたが、そのままわたしの頭を押さえつけた。わしゃわしゃと音が鳴る。
「最初の頃のお前そっくりじゃないか、なぁ、シイナ」
「そんなことはないわ。私はもうちょっと愛想がよかったわよ」
 手をどけて欲しい。頭上の会話はわたしを無視する。
「いいや、むしろ態度はハシムの方がいい」
 失礼ね、と口を尖らせるが思い当たるところがあるようで、視線が見当違いの方を向いていた。わたしより態度が悪いということがありえるのだろうか。魔女はよほど素行が悪かったようだ。
 ――何かが引っかかった。魔女。シイナ。"蒼炎の魔女が名前だとでも思ったの? ”確かに魔女はそう言った。しかし、デクはなんの反応も示さない。
 すっと頭から血の気が引いた。デク、この男はシイナが蒼炎の魔女であることを知っている。ここは犯罪者の交流の場。情報提供者、協力者。肩書きがなんであれ、当局に通報しない時点で彼は敵。
 目が鋭くなったのが自分でもよく分かった。腰を軽く引いた。大きな分厚い手が頭からはずれる。
 その変化が分からないほどデクは木偶ではなかった。口角を上げ、両手を軽く挙げた。声はため息と交じっていた。
「シイナ、やっぱりお前さんにそっくりだわ」
 魔女を見ると、意外にもくすぐったそうに小さく微笑んでいた。

「で、最近どうなんだ? 魔女業はうまくいっているか?」
 それとも新しい玩具に夢中かい。
 意地の悪い中年男を魔女は小さな鼻で軽く笑った。両方ぼちぼちよ。
 玩具、わたしか。
 確かに魔女にとってはそうだろう。魔女の気まぐれで生かされている。しかし、それもあと二日で終わる。カプセルが無くなればわたしが魔女のところにとどまる理由はない。
 ないのだ。
 胸が急に重くなった。どうしたのだろうか。

 あと二日。この強制的に始まった生活は終わる。わたしが死ぬか、魔女が死ぬか。二つに一つ。わたしが死ねばそれでお終いだ。わたしは消え、魔女は新たな玩具を手に入れるかもしれない。わたしの死んだ後などどうでもいいか。
 しかし、魔女が死ねばどうなるだろう。わたしはD型に、本来の生活へと戻る。戻ってもわたしは料理をすることはなく、すでに味を忘れてしまった流動食を片手に、もう片方に銃を持ち、口にカプセルを含み、人間を殺していくのだろう。
 わたしが停止するそのときまで。ずっと。
 漠然と未来を考えたことはなかった。ただ今という名の船に乗って流れに身を任せていた。その後を振り返ることはなく、その先を見ようとしたこともない。過去も未来も、“今”と同じだった。だから何も考えなくてすんだのだ。
 今はどうだろうか。魔女によって起こされた渦にわたしの船は飲み込まれつつある。その渦に沈むか、逃げ切れるか。逃げ切ったとしても本来の流れとは違うところへ迷い込んでしまうのではないか。
 足が重くなった。肩の荷が更にわたしを“今”にとどめているような錯覚すら覚えた。
「ハシム」
 魔女が呼んだ。わたしの名ではない名を呼ぶ。そもそも名前が無いのだから気にすることはないのだろうか。ずっと魔女は“あなた”と呼んでいた。わたしも魔女を“貴女”と呼んでいた。
 しかし、今は“名”を呼ぶ。
「ハシム、行くわよ。私達も商売しなきゃいけないわ」
「商売?」
「そうよ、なにごとにもお金が必要なんだから」
 それはそうなのだが。魔女が、商売?
 今までのイメージがどんどん崩れていくのを感じながら、魔女の蒼い背についていった。
 見失わないように、見失わないように。人という名の波を渡る。

 魔女は市場の隅の方でようやくそのリュックを降ろした。ビルの角で、中心の流れからははずれた場所だ。
 リュックから敷物を取り出し、しいていく。厚手のカーペットの色はやはり蒼色だった。簡易テントの骨組みを組み立て、蒼布を上にかぶせた。それはとても手際よく、瞬く間に小さな店ができあがった。
 不備はないか、点検を終えた魔女はこのときになってようやくわたしをテントの下に招き入れた。
「何をするつもりだ」
「私は魔女よ」
 …………。呪いでもかけるのだろうか。
「そんなナンセンスなことしないわ」
 しかしそう言いながら魔女はわたしの疑いの目から視線をそらした。ナンセンスは自分の命を狙っているD型を囲っている時点で成立している。
 魔女はわたしのリュックをを受け取り、その中身を取り出した。色とりどりのガラスの瓶が次々に出てくる。どうりで重いはずだ。
 瓶の中身は液体状の物から固形の物まで色々だった。ひからびた草や果物をテントにつるしていく。魔除けか。
「違うわ。私は自分で作った薬を売っているの」
 魔女ってね。元々民間治療の担い手なのよ。
 呆気にとられた。
 多くの人を殺している人物が薬を売っている? いかがわしい物としか考えつかない。
 資格のない者が薬の販売を行ってもいけないというのに。これでまた新しい罪状が増えたという訳か。
 蒼炎の魔女から薬を買おうという人間がいるのだろうか。
 首を捻っていると、つんつんと裾を引かれた。顔を横に向けたが誰もいない。怪訝に思う前にもう一度引かれた。視線を裾を引かれる方向と同じく下にすると。
「青い魔女のおばちゃんのケガの薬ちょうだい」
 小さな人間がいた。子供だ。
 子供を見るのは初めてではない。だがここまで近くに接近したことはない。あい、と母音に近い「はい」で硬貨を渡される。渡されても困る。魔女は笑顔で少年に対応した。
「お姉さんにおばちゃんとか失礼なことを言う子には売らないわ、坊や」
「けしょー濃いおばちゃんやん」
 即答。
 恐らく五つを数えたばかりと思われる子供にとって六倍以上生きている人間は“おじちゃんおばちゃん”なのだろう。化粧が濃いという意見にはわたしも同意する。
 蒼炎の魔女は青筋を浮かべた。今にも子供の頭に拳を高速で置きそうだった。
 子供は人間だ。善良なる人間を守るのはP−Pの役割である。子供が感情抑制剤を飲んでいないのは親の責任だろう。わたしは子供をかばった。
「子供にとって三十路を越えた女性はおばさんなのだろう。子供を怖がらせるな、魔女」
「私はまだ二十代なのだけれど、ハシム?」
 …………今まで何度も魔女に殺気を送られてきたが、ここまで澱んだものは初めてだ。子供はわたしの後ろに隠れ、わたしも思わず一歩下がっていた。そうか、わたしと十も違わないのか。よく考えれば、わたしの実際の年齢はこの少年とそう変わらないのだが。そのことに魔女も気がついたのだろう。
「たかだか五つしか数えたことのないコンビが、お姉様に文句でも?」
 少年はぶんぶんと首を横に振り、わたしにしがみついた。板挟みになったわたしは魔女の凶悪な笑みと対応しなければならなかった。本題に入ることが逃げ道だ。
「魔女。この少年は怪我の治療薬を欲しているそうだ。これが代金だと」
 あまり近づきたくないので、コイン一枚を魔女に投げ渡した。
「青い魔女のお姉さん、お薬ちょーだい!」
 学習能力が高い少年はすかさず叫んだ。この子は正しい道を歩めば素晴らしい人間となるだろう。
 魔女はふんと鼻息を荒くして、薬を取り出して小瓶に詰め替え始めた。助かった、と二人で双肩を下げた。
 少年が薬を受け取るときにはすでに客が並んでいた。

「ちょいとあんた、蒼炎の魔女の助手かい。ちょっくら肌にいい薬をおくれよ」
「母が風邪を引いてしまったのです。なにか良い薬はないでしょうか」
「いつもの薬をくれ」
「熱冷ましの薬を」
「魔女印の惚れ薬を」
「水虫のでこまっているんじゃが」
「この頃ばあちゃんが頭の毛を気にし始めてね。お、俺じゃないぞ。ばあちゃんさ」
「できものをすぐに消せないかしら」
 忙しい。息をつく間もないというのはこのことだ。なれない人の対応にわたしは必死になった。渡す薬を間違えて魔女に叱られるといったことが頻繁に起こった。なぜわたしが魔女の手伝いをしなくてはならないのかなど思う暇もなかった。そう言ったとしても客はそれを許さなかっただろう。只ひたすらに指示に従った。それは任務遂行の時より熱く激しいものだった。流れ作業のような淡々としたものではなく、岩にぶつかっていくようなもの。衝撃の連続だった。
 慣れない筋肉を使ったにも関わらず、疲れていた体は快適に動いた。何故だろうか。
 わたしがしたことといえば、魔女に注文を言い薬の瓶の受け渡しをするだけだ。何故だろうか。
 何故だろうか。
 何故、みな「ありがとう」と言うのだろうか。
「ありがとう」
「ありがとさん」
「ありがとうございます」
「どうもありがとう」
 何故、皆笑顔なのだろうか。何が嬉しいのだろうか。何が楽しいのだろうか。何が彼らを笑顔にするのだろうか。とても疲れているのに、なぜそれだけで体がが軽くなるのだろうか。
 何故だろうか。
 薬は全て売れた。魔女は後片付けに入っている。わたしは両手の手の平を見下ろした。人を殺した手だった。D型と分かるだけで人は眉を顰め、後退した。
 人のために人を殺してきた。そのために産まれてきた。そのために生きてきた。国の平和のために血を浴びた。人間は境界の向こう側で平和に暮らしていた。しかし感謝の言葉はどこにもなかった。それがわたしの義務だった。
 なのに、受け渡しただけだ。わたしが薬を作ったわけではない。なのに、この手を握って感謝する人がいた。わたしは手を握った。
 変だ。奇妙だ。不可解だ。
 なによりも、それだけで言葉に窮してしまう自分が、一番。

 魔女はそんなわたしの肩を叩き、コーヒーのはいったコップを差し出した。わたしはゆっくりとそれを受け取った。白い湯気が立っていた。湿った灰色の夏は汗をかき動きを止めると寒かった。
 店をたたみ、敷物だけが残っていた。その上に椅子が三つ。わたしと魔女。そして、デクが来て腰を下ろした。
「なかなか盛況だったな」
 魔女は肩をすくめた。
「今日が最後だからじゃないかしら」
「最後?」
 初耳だった。そもそも商売をしているだけで意外だったというのに、今日で終わるというのか。胸にすきま風が吹いた。これは喪失感だ。
 魔女は目を細めて、ふふ、小さく微笑んだ。コップから湯気が立つ。
「そうよ。今日で店じまいなの」
「残念だな。先代から引き継いでうまくいっていたんだがね」
 しょうがないわ。魔女は苦笑した。
 わたしは魔女の事情など知らない。だがデクはその理由を知っているようで、そうだな、と同意した。
 分からないのに、二人の会話は成立している。わたしは聞いていることしかできない。話の補足が欲しい。
「先代ですか?」
 魔女に敬語を使う気はすでに失われているが、デクは敬語を使った。デクは過去を思い出しているようだった。
「あぁ、そうさ。いけ好かない野郎だった」
「彼の悪口を言わないで」
 魔女がデクを睨んだ。デクは大げさに体を震わせた。
「あんな男のどこがいいのかね〜。おじさんにはわからんな」
「彼は私の人生を変えてくれたのよ。大切な人だわ」
 わたしは場違いなのではないだろうか。彼らが共有している過去をわたしは知らない。魔女が子供のように頬を膨らませる理由を察することも出来ない。
 すでに店の手伝いをしたときの昂奮は冷め、わたしは傍観者だった。
 それから二人は見知らぬ“彼”の思い出を話し始めた。無愛想だったこと。自己中心的であったこと。しかしその分自分の責任を重く感じる人間だったこと。彼の些細なミスから、偉大さまで彼らはときに笑い、ときに悲しんだ。
 わたしは彼がもう死んでいることと彼らがその死をまだ悼んでいることしか分からない。相づちをうつこともなく、彼らの話を静かに聞いた。
 それはあのリビングで魔女と二人でいるときよりも静かな空気だった。

 どのくらい彼らは話しただろうか。ふと沈黙が降りていた。コップの中にコーヒーはない。
 会話に参加していなかったというのに、その沈黙は居心地が悪かった。なにか、嫌な予感がする。首筋がぞくぞくした。
 デクは視線を下に向けたまま、ほとんど聞こえないほど小さな声で言った。
「奴が見つかった」
 音を立てて魔女が立ち上がった。椅子が転がった。その顔は血の気が引いていた。蒼い蒼い魔女が更に蒼くなっている。魔女がここまで動揺するとは。
「どこ」
 低い。いつもの柔らかい鈴の音ではなく、怨嗟に満ちていた。表情も余裕のないものだ。
「シイナ。落ち着け」
「聞いてから落ち着くわ」
 デクは薄い前髪をかき上げた。全然落ち着く気がねぇな。デクは代わりに落ち着こうとするかのように大きく息をついた。両手を合わせ、口に当て、ぼそぼそと続けた。
「――聖堂だ。というより、お前に招待状が届いている。明後日の午後にいらっしゃいだとよ」
 罠だな。と続けた。デクが差し出したカードを魔女は奪い取った。食い入るようにそれを読み、握りつぶした。
「えぇ、えぇ。罠だろうとなんだろうと関係ないわ。私はこの手で片を付けなければいけないなのだから」
 魔女は硬い表情を崩さず、きゅっと蒼唇を噛み締めた。
 なんでもひょうひょうとしている普段の彼女ではなかった。平常心を忘れている。覚悟――死の覚悟をしているようにも見えた。冷静でなければ、どんなに準備を万全としたとしても暗殺はうまくいかないというのに。
「あっちもお前と同じ状況だ」
「えぇ。でも多分まともにやればアイツの方が強いでしょうね」
 魔女は蒼爪を噛んだ。綺麗な曲線が崩れていく。
 わたしを無視した状況は進んでいった。情報屋なのだろうデクに次々と魔女は武器の名を次々に上げ、明後日までに用意しておくよう頼んだ。デクは魔女を引き留めたいのだろう。しかし彼は制止の言葉を言わなかった。彼の握り拳は微かに震えているというのに。皮肉げに口角を片方だけあげた。
「敵討ちなんて風情があるこった」
「ふふ。蒼炎の魔女に不可能なんてないってことを見せてあげるわ」
 わたしはただ黙視していた。わたしに何ができるというのだろうか。彼女を殺さなくてはならない存在だというのに。
 しかし、彼女が死ねば好都合だとそのときは気がつかなかった。



 をゆっくりと開けた。“ Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ!  ”。
 だが、明日には分からない。カプセルを持っている魔女は彼女の人生を変えた男の敵討ちをするようなのだから。それもなかなか分が悪い戦いのようだ。
 わたしには全く関係ない争いだ。しかし魔女の緊張がこの家を縛っている。自分に向けられたものではないとしても殺気を出されていては休むことが出来るわけがない。この六日間で起きなかったような時間に目が覚めた。まだ日は出ていない。
 もっとも厚い雲に覆われて、ちゃんとした日の出の時間など分からない。置物をまた一つ窓際に置いた。

 昨日一日、シイナはリビングのソファーで寝ていた。作ったご飯を食べることもなかった。ただ、眠っていた。わたしがいるのに、深い眠りについていた。
 わたしはなんども包丁を握った。ナイフを握った。濡れタオルすら用意した。なのに、振り下ろすことができなかった。あの変化は一体なんなのだろうか。
 ただ、シイナの横顔はとても綺麗で、傷つけるのはもったいなかった。白い床を血に染めたくなかった。掃除が大変だからと自分に言い聞かせているのがおかしかった。わたしは彼女が目を醒ますまで、横からずっと見ていた。
 わたしも、シイナも、言葉を発しなかった。夜に起きて、そのままシイナはリビングを出た。そうして沈黙の一日が終わった。

 服を着て、リビングに入った。闇に近い影に部屋は埋め尽くされていた。わたしはスイッチを入れた。カチッと音を立てて回路は繋がり、部屋は明るくなった。明るくなった分、影は濃くなる。
 魔女はいなかった。朝食を作るには早すぎるので、わたしはそのままソファーにもたれた。寝たはずなのだが、体が重い。魔女と暮らしてからの怠さではなく、昨日の動揺を引きずっているのだ。

 わたしとはあながち無関係ではないだろう。魔女が死ねばわたしの任務は完了する。仇と交渉して魔女の死体を貰い受ければわたしは当局に帰れる。わたしが支援すべきは魔女の敵の方だ。
 こんな理不尽な状況に無理矢理押し込められ、生死を握られ続けた。そんなことも明日になったら終わるかもしれない。
 P−Pには料理など必要ないというのにやらされて。部屋を汚くしたのはわたしではないのに掃除をさせられて。感情を持った犯罪者達に揉まれて。なんども暗殺に失敗し、自分がいかに無能か突きつけられた。
 嫌なことばかりではないか。嫌だと思わなくてはいけないことばかりではないか。
 わたしは魔女の敵なのだと、自分に言い聞かせた。何度も何度も繰り返した。手に握った紙を、昨日魔女がカードにそうしたように、握りつぶした。そして破ってゴミ箱に投げ捨てた。
 カプセルがなければ、わたしは死んでしまうのだ。それまでに魔女には死んで貰わなくてはならないのだ。
 薬を受け取り、感謝を表す人々の顔を振り払う。
 彼女は犯罪者なのだ。D型を玩具のように殺し、平和に重要な政治家を殺していったのだ。死体を弄ぶような、凶悪な犯罪者なのだ。そうは見えなくとも、彼女がやったのだ。指紋も一致しているのだ。彼女に間違いないのだ。当局が間違えるわけがない。
 言い聞かせた。言い聞かせた。なんども呟いた。
 それが、間違いであって欲しいという願望を強めていっても、わたしにはそうするしかった。
 魔女の戦いにおいてわたしは 傍観者ムカンケイなのだから。

 朝食を作り終わる頃に魔女はリビングに入ってきた。いつもならおはようと笑顔を見せるというのに、無表情だった。産まれて五年間、見続けた表情だというのに、魔女がすると違和感が先に立った。それほど魔女は表情に富み、感情のままに生きていた。そしてわたしもたった六日間――実質五日間で慣れてしまっていた。
 わたしは無言で朝食を差し出した。
 食事の間も無言だった。
 細切れでない野菜を使っていた。朝から気合いを入れた料理だった。いつもの彼女ならば喜んだだろう。だが表情一つ変えない。
 会心のできと言ってもよかった。時間をかけたぶん、味にこだわった。彼女はなにも言わない。
 味見のときに美味しいと感じた料理。今は流動食を食べたときのようなものになっていた。
 そして、朝食の時間は終わった。

 わたしが食器を洗う間に魔女はリビングから姿を消していた。わたしはリビングからは出られない。

 いつもなら、魔女が向かい側に座っている。空白をわたしは見ていた。いつもなら、彼女を殺すためにトラップを作っているところだが、そ気力がわかなかった。何もすることがないというのはある意味、拷問に近いのではないだろうか。元々綺麗なのでこれ以上掃除をする必要もなかった。わたしは本棚をあさった。

 本を一通り読み終わったわたしはラジオをつけた。なにかニュースをしているかもしれない。今まで魔女が占領していたのでニュースを聞いていなかった。暇つぶしにはなるだろう。
 感情抑制剤の服用義務を声高に主張するCMから始まった。政党の主張が続く。感情を表すのは害悪である。戦争を起こさないためにも、犯罪を起こさないためにも感情を廃し理性で生きてゆこう。人は怒り、悲しみ、憎しみを募らせてゆく。最初からそんなものを感じなければ、犯罪は起こらないだろう。そのために楽しみや喜びを感じなくなったとても、それは戦争の前では些細な問題である。いや、そもそも楽しもうとすることも嬉しいと感じることも喜ばせようとする意欲すらも自己中心的な行動へと人を導くのだ。己のことしか考えなくなったとき、人は他人を巻き込んだ不幸を創ってゆくのだ。

 そうだろうか。わたしは疑問におもった。頭に浮かぶのは薬を買って礼をいう人々の笑顔だった。
 人のために薬を作った魔女は彼らを不幸にしたのだろうか。病気の母親のために硬貨を握りしめて走ってきた少年は母親を不幸にするのだろうか。喜んで欲しい、と願うことすら罪なのか。
 わからなかった。魔女がいたなら否定しただろうが、今はいない。わたしが考えなくてはいけないのだ。
 感情は、たしかに争いを起こすだろう。闇市で喧嘩は起こっていた。深刻なものもあったが、皆が笑ってふざけあった喧嘩もあった。闇市には犯罪の毒もあった。スリで捕まったものもいる。しかし、皆が笑い、怒り、生きていた。声を張り上げ、少しでも商品を売ろうとしていた。自分の仕事に全力を出しているように見えた。感情って言う誇りをもっているのよ。魔女はそれこそ誇らしげに彼らを見つめていた。
 理性は本当に戦争を起こさないのだろうか。国が貧し、他国から奪わなくては存続できない状況で、理性が戦争を選んだことが本当になかっただろうか。ある国で、四民平等と謳ったその傍らで最下層の民を差別した。階級の不満の発散と、醜い優越感を彼らに押し付けた。その政策は理性が行ったものではないのだろうか。
 今まで考えもしなかったことがあふれ出てきた。自分はP−Pで、考えることなど必要ではないのに。だが止めることも出来ず、止めようとも思わない。
 “君は何を感じて生きているのだね? ”
 魔女が、シイナがここにいればいいのにと本気で思った。彼女ならば聞いてくれるだろう。あの賢しらな口で、偉人の名言をを引用しながら楽しそうに考えを述べていくだろう。彼女がたとえ犯罪者だとしても、話を聞いて欲しかった。敵討ち?それがどうした。わたしは初めて自分のエゴを優先した。

 シイナに会いたい。

 わたしはソファーから立ち上がった。シイナの部屋が途中にある廊下に出るドアのドアノブを捻る。ガチッと途中で止まった。煩わしい。こんなときまで鍵などかけなければいいのに。こちらに鍵穴はない。完全に外からしか操作できない型だ。
 わたしは台所からありとあらゆる道具を持ち出した。のこぎりがあればいいのだが、ない。ヤスリで削れるだろうか。いや、それでは時間がかかりすぎる。思い通りにならず、苛立ちがつのった。知らず、爪を噛む。今日の午後と言っていた。正確な時間はシイナが握りつぶしたカードに書かれているのだろう。今の時間は。時計を見ると、十一時十分前。
 もう、行ってしまったかもしれない。わたしはドアを叩いた。渾身の力を振り絞って、叩く叩く叩く。声を張り上げた。ここまで大声を出したことはない。シイナ、ここを開けてくれ! シイナ!
 返事はない。ドアに耳を当てるが物音一つしない。頭から血が引いた。あんなシイナの状態では猫だって殺せない。彼女より強いとシイナが自分で言っていたのだ。生半可な強さではないだろう。
 どうすればこのドアを通ることができるだろうか。銃でもあったら楽なのだが。もちろんない。爪を噛む噛む噛む。リビングをぐるぐる歩き回った。
 つけっぱなしだったラジオが十一時を知らせた。十一時のニュースを始めた。
『十一時になりました。十一時のニュースをお伝えします』
 うるさい。それどころじゃない。
『最初のニュースです。昨日夕方四時頃、D型P−Pの死体を警察本庁に送られてきたのを作業中の職員が発見しました。このP−P、D876は蒼炎の魔女を追う任務についておりました。破壊推定時刻は昨日の昼頃とされ、検出された指紋から犯人を蒼炎の魔女と判断。蒼炎の魔女によるD型P−Pの破壊は五年前から始まり、その損害は著しく……』
 わたしは固まった。
 昨日一日、わたしは彼女の隣にずっといたのだ。破壊推定時刻は昼頃。シイナはわたしの前で眠っていた。
 彼女はD876を殺してなどいない。少なくとも D876 かのじょを殺してはいない。
 訳が分からない。冤罪なのか? しかし魔女は仇を殺そうとしている。
 あぁ、もう。分からないことだらけだ。彼女に会うまでは“分からない”ことすら知らなかったというのに。
 わたしは頭をふった。冷静になれ。少なくともこういうときは感情に流されてはいけないだろう。ゴミ箱から破いた紙を取り出して、ポケットにねじり込んだ。昨日の帰りにデクがシイナにばれないように渡してくれたものだ。彼の連絡先が書いてある。大きく息を吸った。吐いた。吸って止める。

 わたしは窓の外を見た。やるしかない。

 ガラスが割れる。そのまま部屋に飛び込んだ。そこは昼間だというのに暗い。光に当ててはいけない薬があるのだろう。わたしは壁づたいにシイナの部屋に侵入した。落ちたら即死である。ここはビルの最上階なのだ。
 初めて見るシイナの部屋は薬の壺で埋め尽くされている。部屋というより壺置き場だ。
 部屋には机があった。その机の上には写真と本がおいてあった。写真の男はどこかで見たことがある顔だった。彼がシイナの思い人だったのだろう。しかし、どこで見ただろうか。殺した人間ではないということしか分からない。
 その写真はひとまず放っておくことにした。本をみる。本の題名は世界の偉人の格言。なるほど、これが元ネタか。
 偶然開かれたページを見た。舌打ちしてわたしは外へと走り出た。ブーツを履くのも煩わしいほどだった。

『問題なのは人生ではなく、人生に対する勇気だ。
                    BY.サー・ヒュー・ウォルポール』
 
 わたしはウォルポールが誰だかしらないが、彼が言っている勇気がいまのわたしを突き動かしている。


「デク! シイナはどこに行った!」
「遅い! もういっちまったぞ!」
 来ただけでもわたしにとっては大問題だということをこの男はわかっていない。わたしは冷徹無慈悲のD型だ。今は狂っているが。
 場所はここから車で一時間ほどの壊れた聖堂だとデクは言って車に乗り込んだ。わたしも続く。大体の武器は後部座席とトランクにあると言い、わたしは一番慣れた武器を告げると頷き、車を急発進させた。わたしはそれを取り、調節を始めた。現場に行ってから微調整ですむ程度にはしておきたい。聖堂の見取り図を受け取って、場所を把握する。
 シイナ。シイナ。貴女はわたしを笑わせると言っておきながら、わたしはまだ笑ってはいない。そしてわたしは貴女を殺してはいない。

「シイナは人を殺したことがあるのか」
 十一時のニュースを聞いたと告げる。デクは鼻に皺を寄せた。上向きの鼻はは赤く焼けている。デクの薄い唇が歪んだ。
「あいつのプライベートなことは、あいつが生きている限り言うつもりはないさ」
 ばれたら怒られるからな。
 自分で聞けということなのだろうか。
「ただ言えるのは、D型をころしまくっているのはアイツじゃない。あと、この五年間あいつは人殺しをしていない」
 わたしにとって、それで十分だった。十分すぎるほどだ。


 聖堂に着いた。裏口から入る。デクは外で待機している。彼の体型は隠密には不適切だ。
 わたしは暗殺者の仮面を被る。
 もう始まってしまっただろうか。もう決着が付いてしまっただろうか。シイナは無事だろうか。心臓が今までになく激しく脈打った。それでも表情にはださない。呼吸を崩さない。今になって自分を押し殺せれるすべを実践できるとは不思議だ。
 裏から聖堂の上に上る。屋根の梁を目指す。担いだブツが柱に当たらないように気をつける。表の方から声が聞こえた。
「ヒャはハ! 無ざ――な雌豚ダなぁ!」
「あな――り、細いと思う――ど?」
 会話は同じ声によるものだった。二重複声のように聖堂に響く。一部聞き取れないのは距離があるからだろう。
 わたしに彼女たちの姿はまだ見えない。
「サイゴのサイゴ、やっぱり、テメェのハラワタまき散らしたくってサァ! ガンバッチャッたぁ!」
「イタイのは存在だけにしなさい。見苦しい声ね」
 同じ声だが、調子が全く違う。双子なのか?
「見苦しいのは、――メェだよ! ――なんかとツるみヤがッて。同じ――としてはっじゅ――しぃ!」
「貴女と会話を成立させるのって難しいわね。――シムの方がよっほど会話上手――ったわ。同じ――でもね」
 わたしの名がでた。それだけでなぜか目頭が熱くなった。それにしても敵は頭がおかしいのではないだろうか。シイナの方が冷静のように聞こえる。大丈夫、なのだろうか。そもそもシイナはわたしより強いのだ。そうそう負けるわけがない。
 それでもシイナの敵は生きている。半壊した屋根の梁にたどり着く。頭上には黒く厚い雲が波打っていた。一雨くるかもしれない。それまでに決着をつけた方が良いだろう。
「イひひ。ハシム? テメェが拾ったディー型カ。名前なんカつケて、世話して、サァ! あのやろうのマネかよ」
「さぁ? 私がしたくてしたことよ」
「ヒャは! 決めたキめた! あタしはハシィィムを殺す!」
 シイナの怒気がわたしのところまで来た。空気が膨張する。肌が震えた。怒りは熱だ。静かに煮立つものから一気に炎をあげるものまで様々だ。
 まだ、彼女たちが見えない。あと、もう一つ上に行けば十分な土台がある。わたしは両手を床にかけ、無理矢理体を引き上げた。
 聖堂が一望できた。そこには蒼と紅が並んでいた。
「ハシムに少しでも手を出したら、その腐った脳みそをカラスにでも食わせてやる」
「ハッ。そりゃぁ〜ムリだわ」
 その光景に絶句した。

「テメェ食って腹一杯だからサァ」

 くすんだ黒に近い赤の服を着た女が紅い斑点のある地面に靴を湿らせていた。朱い液体の中心には湿って黒に近くなっている蒼の魔女が腹を片腕で押さえていた。息をする度に紅い血がかすかに溢れていた。彼女の膝は微かに笑っている。立っているのが辛そうだ。傷は浅いと言っても血が流れるだけで体力は失われる。おそらく怪我は腹部だけではない。
 喉が干上がった。指先が震えた。声を漏らすことも出来ない。蒼炎の魔女が、シイナが、傷ついている。このままではシイナは負ける。死ぬ。

 嫌だ。

 わたしは背中に担いでいた狙撃銃を構える。標準を女に合わせた。産まれてきてからずっと行ってきた動作は意識しなくとも完璧だ。スコープの中から女を見る。
 シイナとほとんど身長は変わらない。それどころか背格好まで似ている。醜く歪んだ口端と目尻は、シイナと似ても似つかない。だが、すました顔をすれば、女はシイナとそっくりだった。女の瞳と髪が黒くなければ同じ人間がいると錯覚してしまうほどだ。
 やはり双子なのだろうか。

「ふぅ。ハンデをつけてあげたってわからない?」
「負けイヌはきゃんきゃんうるさいってシッテるかぁ?」

 女は銃口をシイナの頭に向けた。そして、ぐりんと頭を動かした。泥色の瞳に、わたしの姿が映っていた。引き金を引く指が思わず止まった。シイナの顔色が変わる。
「テメェはあとだ。ちょっとマッテな、コーハイちゃん」
「ハシム!?」
 なにをしているの!? そんなの決まっている。貴女に生きていてほしいのだ。話を聞いて欲しいのだ。女の銃口がわたしの方を向く、横に転がってよけた。古い材木は簡単に弾ける。体勢が崩れた。わたしは背を低くして走る。
 シイナは女に飛びかかっていた。その手に武器はない。わたしは女の足を狙った。撃つ。女はシイナを片手で制止、右足を少し前に出した。たったそれだけの動作。全ての攻撃を避ける最小限度の動き。銃弾に当たらない。拳は流される。シイナの腕を後ろで固定した。シイナは女の盾になった。
 人間の動きではない。
 女は首を鳴らしながら、愉悦の笑みを浮かべた。シイナが以前したようなものではなく、嗜虐的な色が濃い。
「最新のカプセルはやっぱイイな、テメェも、飲みゃ、あタしと同等なのによぉ〜。死んだ男に義理立てして、あタしにころされるんじゃぁ、二人ともバッカだよな!」
 まぁ、あタしととテメェを区別できないような男だったしぃ?
 女がシイナの耳元で囁き、首に舌を這わせた。シイナの表情は変わらなかった。
「あの人の悪口を言わないでくれるかしら、ヨイム」
「アイツを殺すのがアタシ達の任務だったんだぜぇ? なんで怒るかなぁ〜」
 カッカッカッカ!
 嗤ったかと思えば、女はその表情を消した。シイナのあごを掴む。
「ヨイムなんて、くだらねーだせー名前勝手につけてんじゃねぇよ」
 汚らわしいもののようにシイナを突き飛ばした。シイナは床に倒れる。よけられてもシイナに当たらないよう、射つ。ヨイムの銃が獰猛な咆吼を上げ、再び静寂に帰った。
 カツーン。銃弾が床に落ちた。その弾は二つの銃弾が正面からぶつかり、癒着が起こっていた。本物の化け物を見た。
 わたしの攻撃など取るに足らないものと鼻先で嗤い、シイナの方に向いた。
「あタしはくだらない、弱いくせに偉そうで、何も出来ないくせに優越感にヒタッテル、馬鹿がバカをワラッテル、人間がだいっきらいなんだよ。かんじょーが戦争をおこす? リセイがへーわを作る? ばっかじゃねぇの? そんな偉そうなこといって作っているのは兵器じゃねぇか。 殺し合いたいってイッテルヨウナモンジャン」
 ヨイムは上着のチャックを降ろした。鋭利な三日月笑みの下、すぐにそこは素肌で、その胸の膨らみの中心には――――

 断じられた聖十字とD416の刻印――

「ジブンの手を汚したくないからってサァ。馬鹿なモン造ったヨナぁ。反抗されるなんてカンガエモしなかったんだろうぜぇ」
 ま、楽しいけどぉ? D416はシイナとと同じ顔で、小さく微笑んだ。とてもとてもそっくりだった。鏡あわせのように。D416はは狂気を収め、冷めた表情をした。シイナのマネだ。
「貴女もそうだったでしょう? D417。我が妹よ。ってナ!」

 言葉が、出なかった。脳が認めることを拒否していた。なのに、あの強さの理由が納得ができた。
 シイナは表情を曇らせた。肯定しなかったが否定もしなかった。悔いるような目で、わたしをみた。それが答えだった。

 おおよその事が理解できた。なぜD型が殺され続けていたのか。なぜ指紋が同じだったのか。本当に犯罪を犯していたのは誰だったのか。五年前から人を殺してはいないという言葉の逆の意味も。
 わたしが貴女は人間だという度に、シイナが嬉しそうに悲しそうに目を細めていたのかも。

「D846を騙して楽しかったかぁ? テメェの人間ごっこに付き合わされて、可愛い可愛いコーハイが可哀想だなぁ!」
 体が強ばった。D416に同情される筋合いはないが、シイナはわたしで遊んでいたのだろうか。己が人間に見えるかどうか確かめ、D型と見抜けなかったわたしを影で笑っていたのだろうか。焦点がぶれる。それでもシイナをすがるように見た。
「…………て」
 シイナがの声は小さくて、わたしのところまで届かない。
「まったく、言いたい放題言ってくれるじゃない。私がどんなに頑張ってきたかなんて知らないくせに」
 シイナは顔を上げた。この二日間の悲壮な覚悟を背負ったものではなく、はじめて会った頃の、矜持をもった凛々しいもの。
 いつものシイナだった。何故かそれだけで、わたしは弄ばれたのではないと確信を持てた。
「逃げて逃げて、殺して逃げて、カプセル奪って、借り物の力に酔って、殺して殺して! そんな卑しいハイエナと同じだなんて」
 屈辱だわ。撤回しなさい、お姉様  クソヤロウ 
 シイナは懐から小さな何かを取り出した。冷めた目でシイナはそれをみる。
「これだけには頼りたくなかったのだけれど。こんなときなら、あの人も許してくれるでしょう」
 口に含み、一気に噛み砕いた。

 何が起こったのか。一瞬にして、D416は壁に体をめり込ませていた。シイナはさきほどの位置にたち、拳を突き出していた。殴り飛ばしたのか。そういえばシイナははじめから接近戦がかなり強い。
 シイナは当然のことのように口角の端をあげた。首を鳴らす。腹部の血は止まっていた。
「っがっフ。て、テメェ!!」
 血走った目をシイナに向ける。シイナは平然としている。蒼唇を紅い舌が艶めかしくなめた。
カプセル  麻薬 からは足を洗ったのに、まったく。久々すぎて、…………ぞくぞくしちゃうわ」
 腰にくる、妖艶な笑み。瞳には恍惚の光が照っている。ラリっている。わたしも飲んでいるがあんな風にはなっていない、と、思う。
「ヨイム。麻薬に慣れきっちゃった貴女と、五年ぶりに飲んだ私。どっちが効果が高いか。比べちゃいましょう?」
「フフフふざけやがって!」
 少し前まで絶対的優位に立っていたヨイムは醜悪な感情をむき出しにした。その動揺をシイナは嘲笑った。
「殺すことが出来る瞬間に、殺す。対象をいたぶるだなんて暗殺者  D型 として三流よん。ね、ハシム」
 わたしは肯いた。殺せと言われたものは完全に殺さなくては。窮鼠猫を噛むという言葉を知らないのだろうか。
「あっはん。でっすって、ヨイム。コーハイちゃんって成績イイのよぉ?」
 どうでもいいから、その口調は止めて欲しい。調子が狂う。いや〜ん、じゃない。うりゅ〜、じゃない。
 そのやりとりを歯ぎしりして聞いていたヨイムが駆けた。その太ももをわたしの銃弾が貫く。すかさずもう一発。今度はよけられた。
 わたしは彼女を殺すつもりだった。五年間だ。五年間、D型のシイナは誰も殺さなかった。それをこんな奴のために穢させるわけにはいかなかった。体が軽い。銃弾を込め、スコープを見なくても、ヨイムの姿は十分わたしの目に映っている。
「あら駄目よ。せっかくカプセルを飲んだんだから、発散させてくれなくちゃ」
 シイナはヨイムの眼前、直線上にいた。
「それに――貴女だけは私の手で片を付けたいの」
 シイナは手を広げた。ヨイムを抱きしめるように、無防備な姿。ヨイムが足を押さえて、銃を撃った。わたしが撃つ前にシイナが手を交差させる。それだけで銃弾はどこかに消えた。何をしたのかここからではわからない。魔女の魔法に見えた。
 痙攣を起こしてい引きつった笑顔のヨイムがつばを垂れ流しにしながら、――それでも正確な射撃――撃つ撃つ。魔女は舞う。軽やかな踊りで凶暴な刃を振り払ってゆく。ヨイムの白目に血が走っていている。紅い目と蒼い目が弧を描く。必死の死闘を楽しんでいる。
「クソが!」
「女の子の科白じゃないわよ、お・ば・さ・ん」
 嗤う嗤う嘲笑う。
 銃撃の太鼓囃子。ブーツの踵が曲を奏でる。紅と蒼、対の衣が舞う。纏い、なびくは血紅の羽衣。神の御許、聖なる堂で、魔女達は躍る。わたしは銃を握った。手出しできる世界ではなかった。その狂瀾に魅せられていた。

 何事にも終わりがあるように、戦いは終演を迎えつつあった。二人の体は血が流れていないところなどないように思われた。蒼と紅の戦いはともに紅に染まることで決着を迎える。
 ガクッと突然、糸が切れたようにシイナの動きが乱れた。シイナ!?
「はっヤクが切れたか!? それとも――っ」
 銃口を向けた、ヨイムの血相が変わった。引き金を引いても、咆吼は上がらない。弾切れだ。ヨイムは銃を捨てるか否か一瞬固まった。
 その一瞬が命取りだった。倒れるのを片膝で堪え、シイナが呟いた。
「さようなら、お姉様」
 わたしの銃弾が頭を打ち抜いたのと、シイナによってヨイムの体が横に分断されたのは同時だった。
 ぐちゃっと生肉を地面に落とした音が二つ響いた。紅が広がっていく。そここに透明な水の斑点が浮かび上がった。
 わたしは上を見上げた。雨が、降り始めていた。

 終わったのだ。息を大きく吸う。終わったのだ。ゆっくりと吐いた。わたしの戦いではない戦いが。シイナにとってなによりも大切な戦いが。感慨は深い。そしてここまで来た理由を思い出した。そうだ。終わったのだ。これでシイナの用事が済んだはずだ。話を聞いて貰おう。そして聞きたい。シイナのことをもっと知りたい。
 自然と湧きあがる欲求に顔の筋肉が緩んだ。わたしは狙撃銃を床に置いたまま、シイナの元に降りようと身を翻した。子犬が飼い主にじゃれつくように、わたしは彼女の元へ行きたかった。そのとき、視界の端にシイナが映った。消えそうな淡い笑み。
 ユカにユックリとクズレ、オチタ。
 ――!?
「シイナ!」
 ここではまだ、届かない。


 落ちるように、聖堂に降りた。古い木の床が悲鳴を上げる。そのまま身を起こさないシイナの元に駆け寄った。死体に一瞥もしなかった。細い銀線が彼女の周りに落ちていた。これが魔法の正体なのかと思う余裕など無い。呼びかけても返事はなかった。全身がひどく震えて力が出ない。なんとか彼女を抱き起こした。シイナの顔は蒼白だった。体は驚くほど冷たい。雨が、彼女の顔を濡らした。彼女に雨が当たらないようにぎゅっと抱きしめた。シイナの体がびくっと震えた。
「シイナ! 大丈夫か!」
 うっすらと蒼瞳が開いた。焦点が定まっていない。先程まで妖しく光っていた唇はかさかさに乾燥していた。その唇が微かに動いた。
「ハシム……?」
 蚊の羽音よりもか細い声。いったいなにが彼女に起こったのだろう? 歯が震えた。魔女の動きは驚くほど緩慢で、そっと私の頬に触れた。氷のように冷たい。
「大丈夫?」
「それはわたしの台詞だ、魔女」
 あぁ、そうだ。デクが裏で待っているんだ。すぐに呼んで来るから。シイナは首をゆっくりと振った。はっきりと、横に。
 息をするのも苦しそうだった。微かに眉を顰め、それでも私の頬を撫でた。雨の雫を垂らす黒髪に触れた。
「ごめんなさいね。この一週間、嫌な思いばかりさせちゃったわ」
「そう思うなら、わたしの話を聞いて欲しい。貴女の話を聞かせて欲しい。美味しい料理を作るから」
 魔女は微笑んだ。ごめんね。今日の朝ご飯、とってもおいしかったわ。頑張れたの、そのおかげだもの。
「そうそう、あなたの薬を勝手にくすねてたの。あなたに渡していたのは中和剤入りの栄養剤よ」
 魔女は薬師だ。薬の入れ替えなど簡単だっただろう。調子が悪かった理由が分かっても嬉しくない。魔女はもう何も見えていないようだった。瞳に力が抜けていた。知っている。知りすぎている。この予兆が何を示すのか。呼吸が微かなものになっていく。声はどんどん小さくなっていく。息は喉を擦っているだけだ。D型だからこそ、何が言いたいか辛うじて分かる。わたしは一言も聞き漏らさぬように、蒼唇の動きを読んだ。
「これで、あなたは自由だから。わたしを当局に差し出してD型に戻ってもいいし、私の家で暮らしてもいいわ」
 デクに全部聞けばいいから。
 胸が、痛い。痛い。張り裂けてしまいそうで、引きちぎれてしまいそうだった。壊れてしまう。
「貴女が、貴女が教えてくれればいい」
 わたしはまだ、貴女に一撃もいれたことがないんだ。そうだ。これが終わったんだから、店ももう一度開けばいい。こんどはもっと要領よく働くから。そうだ。あの世界の名言集を読ませて欲しい。あれはなかなかおもしろそうだった。とくにウォルポールという男はすごいと思う。そうだ。そうだ。そうだ。
「そうね。いいわね。すごく」
 でも、ごめんなさい。ありがとう。もう、あの人のとこに――――
 急に強くなった雨が、シイナの最期の言葉を消してしまった。シイナの体が急に重くなった。頬を触っていた手は聖堂に落ちた。蒼い瞳はもう光を示さない。唇の端があがることもない。

 全てが終わった。わたしは小さく呟いた。


 そうだ。貴女にわたしの名を呼んで欲しい。


 何も考えられない。何も感じることが出来ない。雨ががわたしの体温を全て奪ってしまえばいい。シイナと同じ体温になりたい。
 影が出来た。雨が止まる。灰色の世界の雨は黒に近い。モノトーンの世界を黒く黒く塗りつぶしていく。ざぁぁざぁぁぁざぁぁ。血管に血が流れる音と同じ。ざぁぁぁざぁぁぁざぁぁぁぁ。
 デクの声が上から聞こえた。風邪を引くぞ。掠れた声。彼はこうなることを知っていたのだろう。なぜ? うなだれた。髪が落ちて、周囲が見えない。シイナの顔しか見えない。 今日がD型400シリーズの 停止 死亡日だ。 あぁ、そうか。そうなのか。だからもう店を閉じたのか。 あぁそうさ。 立つ鳥跡を濁さずだとよ。 だから、昨日はずっと寝ていたのか。 そうなのか? よほど体力を温存したかったんだろう。
 突然、激しい怒りが湧きあがった。
「ふざけるな。今日が停止日だと」
 ぎゅっとシイナの肩を掴んだ。爪が食い込むが、シイナは悲鳴をあげない。わたしは乱暴に揺さぶった。
「今日、止まるなら! わざわざヨイムと戦うことはなかったではないか!! たった五分だ! たった五分しか変わらない死を与えてなんの意味がある! どうせ二人とも止まるんじゃないか! 死ぬんじゃないか! ここまで身を張る必要など!!」
 くだらない!! 蒼炎の魔女、、貴女はくだらない!!
「ハシム。それでもこの結末をシイナは望んだんだ」
「こんな傷ついて! ――わたしは結局、」
 シイナを抱きしめた。力一杯。肋骨が折れたかもしれない。それでもわたしは力を抜かなかった。
「彼女に笑顔を見せられなかった――――!」
 デクはただ、わたしのそばに立っていた。

 しばらくして、無理矢理デクに車に押し込められた。わたしはずっとシイナを抱いていた。もう、どうでもよかった。
 デクの家に着いた。デクはわたしからシイナを奪おうとした。逆らった。シイナを汚いままにしておくのか。そう言われて、力が緩んだすきにシイナを奪われた。わたしの腕から重さが消えた。消えた。全て消えた。腕から力が抜けた。シイナはいない。

 デクはわたしに毛布とコーヒーを押し付けた。そこから、勝手に話し始めた。蒼炎の魔女のお話を。
 初代総帥と手を組んだ科学者が、己のしたことを悔いて逃亡したこと。デクは彼の幼なじみであったこと。シイナ、D417やD416達が"彼"の命を狙って追ってきたこと。ある時、シイナが事故を起こし"彼"が助けたこと。そして始まった共同生活のこと。シイナと名付けたのは"彼"であること。小さな幸せが芽生え始めたとき、D416に"彼"が殺されたこと。そして蒼炎の魔女がうまれたこと。刻印は皮膚を移植して隠したこと。
 変な符合にもわたしは反応をしめさなかった。シイナがいないのにそんな話を聞いても意味がない。そして、気がついた。話すことで、デクはその悲しみと向き合っているのだと。わたしを求めているわけではない。わたしはコーヒーが光を反射するのを見ていた。

 泊まっていくか? デクの申し出を断った。わたしはデクから鍵を受け取った。帰る。帰る。シイナが待っている気がした。
 雨はまだ止んでいなかった。傘を渡されたが、ささなかった。ざぁぁざぁぁぁざぁぁ。もう、何も聞こえない。胸に大きな穴が出来ていた。ざぁぁざぁぁぁざぁぁぁ。雨音だけがむなしく響く。
 エレベーターの箱のなか。ワイヤーが切れないだろうか。きれたらいい。棺桶に入ったまま死ねるから。なぜ、シイナの死が悲しいのか分からなくなっていた。何が悲しいのだろう。悲しいことが悲しいのだろうか。ただただ悲しい。棺桶の中まで雨の音。
 最上階。天に一番近いのだ。あぁでもシイナはD型だから、地獄に行っているかもしれない。鍵を忘れてドアノブを捻る。簡単に開いた。そういえば、戸締まりをしなかった。あぁでも鍵は持っていなかった。
 部屋を覗いても、誰もいなかった。リビングに入っても闇のまま。自分の部屋に入った。勿論誰もいない。わたしはベットにそのまま倒れた。夢は見なかった。闇一色。




 それでも、体内時計はわたしに目覚めを要求する。わたしの記憶ははっきりとしていた。昨日が夢ではないことも、今日が七日目でないということもはっきりと分かっていた。自分の能力が疎ましいと初めて思った。シイナはいない。いない。しんだ。愚かな死に方だった。少なくともわたしにはそう思えた。
 起きたくはなかったが、わたしは目を開けた。

  Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ! 

 目を閉じた。もう一度開く。

  Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ! 

 橙の字が天井を踊っていた。


  Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ! 

 わたしは
眉を顰め、口を尖らせた。
「だが貴女は死んでいるのだな。蒼炎の魔女」
 涙が溢れ、止まらなくなった。シイナが死んで初めて泣いた。
 止め方など知らない。止まらない。ぬぐってもぬぐっても止まらない。前が見えない。声も押さえられなかった。うなり声が洩れる。目が痛い。困ったものだ。タマネギより強力だ、シイナ。ばかばかしい連想にまた涙が溢れた。自分でも何を思っているのか、訳が分からなくなった。笑いたい衝動と泣き続けたい気持ちが混ざる。わたしは完全に狂ってしまったようだ。ベットの上、なぜか正座で肩を震わせ泣き続けた。

 涙はまだ止まらないが、その勢いは弱まっていた。ティッシュが欲しい。リビングに入った。部屋が少し明るい。台所に立つ女性の影を探したが当然、ない。大粒の涙が落ちた。
 情けないことにお腹がすいた。泣いたせいでいつもより減っている。泣くことがこんなに体力を使うものだとは知らなかった。涙をぬぐって鼻をかんで冷蔵庫に向かった。冷蔵庫の横にあるカレンダーが見えた。今日の日付に赤丸が入っている。そう言えば前に見た。
 ………………? 違和感があった。シイナは昨日死んだ。決められた寿命だ。カプセルという麻薬を飲んでいなくてもその運命に逆らうことは出来ないと知っていたはずだ。死ぬ次の日に特大の印を付ける。それは――――

 わたしに何か遺したのだろうか。

 しゃっくりを一つ。そしてわたしは目を醒ました。

 シイナの部屋に押し入った。窓ガラスは割れたまま。破片を気にせず机に向かう。朝食を作る気は完全に失せていた。
 なにか。なにかないだろうか。それにしても丸を付けるだけでなくて、なにか書き加えてくれれば良かったのに。これが無駄な期待でないことを願うばかりだ。いや、悪い結果を敢えて考えなかった。
 机の上にメモは無かった。化粧品の量に驚いた。あの独特の色が売り物であることが衝撃的だった。
 写真立てのなかも見た。写真の裏には日付と彼の名前が書かれていた。貴女は本当に彼のことがすきだったのか。男の顔は皮肉気でどこか恥ずかしそうだった。幸せだったろうか。彼の人生はシイナがいたことで良いものになっただろうか。ならなかったとかいったら迷わず殴る。死者に嫉妬しても意味が無く、思う相手も死んでいる。それでも構わなかった。シイナは間違いなくわたしの姉なのだから。
 わたしは涙をぬぐって、あの本を手に取った。付箋でもないだろうか。裏表紙に彼の名前が書いてあるが関係なさそうだ。ぱらぱらとページをめくっていくと赤色が見えた。ページを戻すと、カレンダーの赤丸と同じ赤丸がその名言にはつけられていた。


『喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、
 草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい。
                                                             BY トルストイ』

 …………魔女、意味が分からない。わたしはうなだれた。これではないのだろうか。全てのページを見たが、なにもない。
 暗号かなにかだろうか。空に向かって、太陽に向かって、星に向かってというが、どれも厚い灰色の雲に隠されて見えない。
 わたしは窓の外を見た。昨日散々雨を吐き出したというのに、灰雲が空を占領している。

 空を見たことのないわたしにとって空は灰雲だった。空が何色かも実際は知らない。”空"は喜びをもたらすものではない。喜びをむけるものではない。この灰色はわたしたちから光を奪っている。雨を流しても決して綺麗に洗われることはない。薄汚れた街の薄汚れた天井。わたしは窓に近寄った。足にガラスが刺さったが、無視した。この程度の痛みには慣れている。紅い血が流れた。人間と同じ、紅い血が。

 そうだな。喜びを向けるのなら、蒼炎の魔女がいい。シイナがいい。彼女のそばにいればこの町の汚れも気にならなかった。わたしが吸うのは薄汚れた空気はなくどこか暖かいものだった。それは吸っているときには気がつかなかった。今だからこそ――失ったからこそ分かったことだ。結局話を聞いてもらえなかった。話を聞けなかった。もっとシイナのことが知りたかった。彼女はいないけれど。
 また涙が溢れた。人生の使命が喜びなら、わたしはそれを遂行できない。
 空も太陽も星もしらない。魔女だけを知っている。ならばわたしにとって空や太陽や星は貴女なんだ。

 ――――

 音もなく何かが動く気配がした。部屋を見渡すが、何も変わっていない。おかしい。わたしはTシャツの首元をひっぱった。やけに暑っ。

 燃える。肌がじりじりと焼けた。暑い? 熱い! わたしはパニックに陥った。
 視界が真っ白になった。痛い。全身が悲鳴をあげた。何も見えない。
 涙が一瞬で干上がった。わたしは窓枠を探り当て、寄りかかった。目を手で覆うが、それでも白だった。
 以前手術室で感じたものよりも鋭く熱い。何より、目を閉じても、一片の闇がなく――――金色、そう白に限りなく近い金に染まった。

 わたしは暗闇の方へ――部屋の奥に逃げた。目が痛い。肌が痛い。丸くなって痛みが消えるのを待った。
 一体何なのだ。まだ痛む目を無理矢理開けた。新しい兵器か。本気でそう思った。薄目で外を見る。

 光の柱が、立っていた。白い光は部屋を黄金に輝かせていた。容量を超えた状況にわたしは座り込んだ。理解不能。
 そして固まっている間に光の柱はふっと消えた。安堵。復活。ぎょっと飛び上がった。

 光の向こうに白い雲があった。

 その意味がわかると同時にわたしは走り出した。向かう先は屋上だ。忙しないと言われようと歩くなんて悠長なことはできない。
 

 無理矢理屋上のドアを蹴り破いた。そして、立ちつくした。

 そこはシイナの菜園なのだろう。薬草が屋上一面に植わっていた。雲に切れ間が出来て光の柱が地上に降りていた。太陽の光が葉を金色に染めていた。昨日の雨水が光を反射し、きらきらと光っている。
 わたしは屋上に一歩進み出た。暑い。けれど、今は心地よい。金の光を浴びてわたしも輝いていた。
 すごい。すごい、すごい!!

 感極まって、わたしは菜園、光の中心に飛び込んだ。とても美しい世界だった。楽園のようだった。皆、光を浴びて本来の色を取り戻していた。その緑の鮮やかなこと。その色の変化。その濃淡の違い。
 神はこれほどまでに細かく、美しく、巧妙に、生命を創りだしたもうたのか!
 煌めく緑は上を向いていた。どんなに小さなものも天を向いていた。黄緑の芽が芽吹いている。こんな小さなものでも、天を目指すのだ。若葉の上を小さな虫が賢明に動いていた。柔らかな土の上を蟻が列をなしていた。鳥達が音楽を奏でていた。風まで金に染まっているように思えた。
 闇色に染まっていた水たまりは空を、緑を、世界をその小さな水面に映していた。風に揺れて、雨露が飛ぶ。小さな真珠の輝きが舞った。
 もう、何をどう賞賛すればいいのか分からなかった。言葉では言い尽くせない。言い表せれない世界だ。どんなものも、等しく輝いた世界の中、わたしはくるくると回った。動いていなければ胸が張り裂けそうだった。ほら、こんなにも、世界は美しいのだ。
 シイナ。
 わたしは立ち止まった。雲の切れ間の向こう側が見えた。
 シイナ。
 目に眩しい、蒼が広がっていた。天上では濃い蒼が、地上に近づくにつれ淡いものへものに変わっていた。その壮麗なグラデーション。真っ白な雲がすっと横にのびていた。どこまでもどこまでも、世界の果てまでゆくように。風がわたしの髪をさらっていく。鮮やかな空を初めて見た。そうか、空はこんなにも美しいものだったのか。そうか。そうだったのか。吐息がもれた。

 シイナ。

 目尻に涙がたまっていく。景色が歪んだ。瞬きをして、涙を落とした。つかの間のこの楽園を忘れてしまわないように、わたしは見続けた。楽園が歪む。もう一度瞬きをした。
 真っ青の空に、ただ一つ炎があった。暑い熱い。冷たかったわたしの体を火照らせてゆく。血を暖めていく。熱い血がわたしの体を廻る。いつもより早い鼓動が心地良い。

 シイナ。貴女もこの景色を見たのだろう。生きとし生けるものが輝くこの楽園を。

 アオに包まれた太陽 ホノオ
 ソラに包まれた魔女 タイヨウ

 蒼炎の魔女。

 そしてわたしは泣いた。子供のように思いっきり声を張り上げて。光の世界の中で、貴女を想った。貴女もこの光景に涙したのだろう。誰かの太陽になりたいと願ったのだろう。彼が貴女の太陽であったように。
 だから、蒼炎と、名乗ったのだろう。


 灰色に染まった雲が再び空と太陽を奪った。美しい世界を失った絶望が、シイナを失った喪失感と重なった。急に暗くなった菜園で、わたしはしゃがみ込んだ。その暑さも鮮やかさもわたしの心に焼き付いていた。どんなに灰色に染まっても、わたしはこの世界の色をわすれない。忘れるものか。しかし、あの輝きはもうない。灰色の世界をまだ見たくなくて、目を瞑った。かたくかたく、額に当てた拳を握りしめた。

 ずっとそうしているわけにはいかなかった。わたしは恐る恐る拳をとき、指の間から、菜園を覗いた。

 目の前は、闇には薄く、影には濃い、灰色の世界が広がっていた。さきほどのことが白昼夢のように思える。しかし、あのわずかな奇跡でわたしの中のスイッチが入った。目から鱗がこぼれ落ちる。

 灰色の世界。光は弱まり、葉が美しく煌めくことはない。明るく輝くことも無いけれど、熱く燃えたぎる事はないけれど、

 それでも生命は光の中で動いていた。

 楽園の輝きは優しさに満ちていた。金剛石の輝きではなく、真珠の柔らかな輝き。
 当たり前のこと。確かにここは灰色の世界。しかし黒色じゃない。闇に埋もれてはいない。朝が来れば太陽が昇る。その姿は厚い雲で見えないけれど、太陽はいつも空の上にある。そんな当たり前のことに、気がついていなかった。その姿が見えないというだけで、その存在を疑っていた。
 闇ではない。闇など無い。灰色の世界なのだ。この世界は淡く優しい光に包まれている。今もなお、わたしを包み込んでいる。


『喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、
 草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい。
                                                             BY トルストイ』


 シイナ、貴女は、名言は偉人の見つけた世界の真理だから残ったのだといったけれど、もうひとつ付け加えさせて欲しい。

 貴女がいたから、わたしに伝わった。本を渡した彼がいたから、貴女に伝わった。本を作った人がいるから、彼に伝わった。

 伝えたいと思った誰かがいたから、言葉は未来に繋がっていく。

 そう思わないか、シイナ。



 この世界は残酷で、この世界は無慈悲で、この世界は思い通りにはならなくて、この世界は穢くて、それでもこの世界は美しくて。
 誰もが幸せになるわけじゃない。誰もが不幸になるわけじゃない。叶う願いと叶わない願いがある。とても不平等で、やるせない。
 死んでも時は進んでいく。産まれてもだれも待ってはくれない。
 止まっていても、流されて。歩んでいても迷ってしまう。
 人殺しが生き延びて、聖者が死んでいく。
 光より闇を先に見つけて嘆いてしまう、そんな世界。
 意地汚い矛盾に満ちたこの世界を。

 生きて生きて生きて、全てが次に繋がっていくんだ。



 顔を上げる。灰色の世界のなかに立ち上がった。



 涙はもう、止まっていた。




 ◆




 荒廃したビル街。ゴーストシティー。しかしその実態は感情に溢れた活気ある街だ。感情抑制剤を拒んだ者達の楽園ってね。
 今日は月に二回ある、闇市が行われている。闇市の行われる場所を感情の坩堝っていうんだ。これはその名の通り、自由に感情を出す人々が混沌としているんだけどね。初めは圧倒されるかもしれないけど、入ってしまえばあれよあれよという間になじんでしまうよ。それくらい強烈な場所なんだ。感情抑制剤を飲むなんて馬鹿らしいって思えるくらいね。
 お金がない? 心配することはない。物品交換でも商談は成立する。ほら、あそこにいる果物屋の主人に煙草を持って行けば、きっと美味しいリンゴと交換してくれるよ。
 おすすめ? そうだね。闇市の中央の通りから少しはずれた角のところに小さな店があるはずだ。店といっても、簡易テントを立てているだけの、屋台ともいえない代物だけれど。だけど、そこには腕の良い薬師がいる。一代目は男だったんだが、その後は女の人がやっているよ。あまりに腕が良いから魔女っていわれているけれど、え? 大丈夫さ。取って食いやしない。
 それどころかとっても美人だ。笑顔がまたいいんだ。光が差して、こっちまで嬉しくなるような笑顔だよ。おすすめだね。まぁ、ちょっと変わっているけれど。まぁ人間、必ずどこかしらおかしなもんさ。彼女の場合は色だね。そう、色。
 先代も凄かったみたいだけど、それにも負けるとも劣らないね。あぁ、見えてきた。ほら、あれだよ。金の縁取りのある白いテント! あぁ、そうそうその魔女は全身、白と金なんだ。髪も目もさ。 でも美人なお姉さんには変わらない。
 良いから入りなよ。凄いんだ。惚れ薬だって売っているんだよ? はは。朱くなってやンの。あ、魔女が来た。

Good morning! You live today!  おはよう! 今日もあなたは生きてるわ!  今日は何をお求めかしら?

 ほら、白金 プラチナの魔女は、今日も微笑っているよ。





END


※後書き
 起承転結を意識したつもりなのですが、時間との戦いに敗れました。再挑戦するかもしれません。
 お約束な話を書くのはやはり楽しい。


: 突発性競作企画第15弾 「世界の名言」



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