03. 始まりの始まりが始まる
魁は、一体どれだけの傷があるのだろう。
保健室の前に立った燐はなかなかそのドアを開こうとはしなかった。ドアノブに手を添え、じっと下を向いている。
魁が、腕に精神的な痛手をおっているのは正直驚いた。普段のそぶりからは全く分からない。
違う。隠しているのだ。巧妙に。
ドアノブをぐっと握った。こみ上げてくるのはやるせなさだ。
言って、くれればいいのに。
燐は自分のその感情が単なる友情とは違うように思われた。
胸に刺さった小さな破片が少しずつ食い込んでくる。
"最愛の人"
"今も縛られている"
その言葉の意味は――
魁はまだその『最愛の人』が好きだと、想い続けているということ。
魁には好きな人がいる。
うわ。
じんっと瞼が熱くなる。
魁に好きな人がいる。
ただそれだけではないか。
涙の理由にはならない。
燐は頭を振った。少しだけ頭が冷える。それは問題を先送りにするだけのことだったが、今の燐にはそれを正面から受け止めることはできなかった。ドアを開けようと腕に力を入れたとき、燐の意思ではない動きがあった。急にドアが開いた。ドアに近づきすぎていた燐はその扉におもいっきり頭がぶつかった。
「っっつ〜〜〜!」
「あれ。燐!?」
大丈夫?ごめんね!
「う、ううん。別に気にしないで」
魁だ。
ど、どうしよう。
変な顔していないだろうか。
燐は赤くなった額を抑えて、なんとか笑顔を作った。
「魁、もう大丈夫なの?」
微妙に震えてしまった声。どうか気が付かないで。
「うん。ちょっと寝たら気分がよくなった」
保健室のベットって本当に気持ちいいね。
あまりに嬉しそうな顔に、呆れる。
「かーいー?まさか寝るのが目的だったんじゃないでしょうね?」
「ち、違うよ」
魁は慌てて手を振った。あはははと、少し乾いた声。
「そう。ならいいけど」
もうホームルーム、終わったよ。
「え!じゃあ、もう放課後なの?」
「うん」
魁は慌てて腕時計を見た。顔がみるみるうちに青くなる。
「は、速水先生の補習がー!」
燐は走り出そうとする魁の腕を掴んだ。今度は、振り払われない。そのことに内心ほっとしながら、速水からの伝言を伝えた。
「大丈夫!今日は懇談だし、補習なしだってさ」
ただ、燐にはそれだけが理由ではない気がした。
きっと、先生も考える時間が欲しいのだ。あの意味深な、淳子の言葉を。
じっと魁を見る。
二人の身長差から燐は魁を見下ろす形になる。
魁は可愛らしく首を傾げた。
「燐?さっきからなんか変だよ」
「……あ」
言葉にどもる。。
淳子さんから聞いたことを魁には言わない方がいい。
でも。
静かな、誰もいない廊下で、燐はどうしても、"そのこと"が聞きたかった。
「魁」
「ん?」
「魁はさ」
「ん」
魁は不思議そうに燐を見るばかりだ。なんの話なのか、待っている。
「好きな人、いる?」
くしゃと崩れるような―困惑と陰りのある―いつもの、魁の微笑。
燐にとってそれは永遠ともいえる瞬間。
「いないよ。」
は?
聞こえた単語が信じれなくて、燐は魁に詰め寄った。
「いいいいないの?本当に?」
きょとんとしている魁はうなづいた。
「いない。だって、僕、それどころじゃないし」
「え?」
ほうけている燐に魁は丁寧に説明した。
「だって僕、一刻も早く兄さんの願い事叶えないといけないんだよ?恋愛してる暇ないよ」
兄との約束。それがどんなに魁にとって意味があるものか、あの夜に燐は感じとっていた。
「あ…うん。そ、そうだよね!」
沸き上がる、喜び。
魁の背中を力いっぱい叩いた。
「いっ。燐、力強すぎ」
「何いってるの!男が軟弱なこと言わないの!」
「男女差別だって」
少々むっとした魁は意地悪く燐に聞いた。
「あのさ。何で、僕の好きな人を聞いたの?」
うっ。
「やー。別に?なんとなく。魁もお年頃だし、好きな人の一人や二人いるかなぁって」
「……一人や二人って……普通一人じゃなきゃなんかヤだよ。」
「細かいこと言わない!」
細かくないよ。
「じゃあさ、燐は?」
へ?
予想していなかった問いに心が震えた。
「燐はいないの?好きな人」
魁の灰色の瞳には純粋な光しかない。他意の無い問いかけなのだろう。思いがけず浮かんだ存在に、動揺するあまり、燐は一歩下がった。
脳裏にうつる、その人は。とても地味なのに何故か引き付けられる人で。
心の痛みを抱えて、それでもなお前を向いている人で。
目標のためにどんな努力も惜しまない人で。
ここ一番、という時に、物凄い実力を発揮する人で。
自分を守ってくれた人で。
「燐?」
魁の声で、意識が外に向かう。
「わたしのすきなひと?いないいない!」
ろれつがまわっていない。
「かい、あのね」
なんとか、この動揺を、勘ぐられないようにしなくては――
どうして。
どうして。
魁が頭をよぎったの。
だって変。
そりゃ、命を助けてくれたけれど。
そんなに魁が素敵なことをしたわけでも、ときめくようなことを言った訳でもない。
極々普通に知り合って、極々普通に友達になっているだけで。
どうして?
どこに魁が好きになることがあるっていうの。
「ん?」
「さ、先に寮に行ってて!」
私はちょっと先生に質問があるの!
燐は魁の背中を両手で強く押した。
顔は下に向け、魁が、今どんな顔をしているのか分からない。だが魁も燐がどんな顔をしているか、分からない。
分からなくていい。燐は思った。
こんな、顔が熱くなってるのだ。絶対、赤くなっている。顔から火がでそうだった。
その実、燐は首元から耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「燐?大丈夫?今日はなんだか昼から変だよ」
「うるさいうるさい。早く帰りなさい。寮で淳子さんが待ってるわよ」
「うーん。あんまり会いたくないなァ」
淳子さん過保護なんだよ。
物草言いながらも魁はそのまま行ってしまった。
しかし燐が安堵の吐息を洩らそうとしたとき、
「燐!なんか、悩みがあったら僕に言って」
いつも、燐に心配かけてるから。
笑って走っていった。
あぁ。
その背中を見て、胸がざわざわする。
変だ。
魁に好きな人がいると思ったとき以上だ。
でも、いないと言っていた。
でも、恋愛はしないと言っていた。
嫌だ。
変だ変だ。
なんで
こんなにも
心が焼ける音がするんだろう?。
赤くなった顔を押さえて、なぜかこみ上げてきた涙を拭って、燐はその場から逃げるように去った。
「…………っち。告白シーンじゃなかったのね」
「…………梓教官、趣味、悪すぎです」
「そういう君も興味深々のようだったじゃない」
「まぁ、そういうお年頃ですから」
ドアの向こう――保健室で耳を澄ませていた梓と桐子は互いに親指を立て合わせた。