章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

08.恋は下心、愛は真心と言いまして


 
 
「おはようございます」
 寝ぼけ眼を水で起こしてから、燐はリビングに入った。エンが電話の前に立っていた。眉がきゅっとよっている。手は煙草を探しているように胸ポケットのあたりをさすっていた。
 なんだが、嫌な予感がする。ざわざわと胸が騒いだ。
「あぁ、難しいな。神経が肉ごと欠損いるんだろ?神経は一番分化が進んでいる細胞でな。転写で再生させるのは無理だな。歌? 危険性が高い。神経がどれだけ細いか分かっているのか? へたに弄くれば取り返しのつかないことになる。あぁ、できるだけのことはしてみる。だがな、俺としては義手を探すことをお勧めする。――お前のせいじゃない。ただ、下手に残しておけばそこから病気になるぞ。和久が目を醒ましたら、相談しろ」
 ――かずひさ。聞いたことがある。それもごくごく最近。
 最近じゃない。昨夜だ。それは和泉さんのお兄さんの名前じゃなかったっけ?
 そこから導き出される結論、和泉さんに、――もしくはお兄さんに何かあったの?
 昨日会ったばかりで十二時間も経っていない。しかし、和泉とは楽しくやっていけそうだと思っていた矢先。――遊都は危険なところ。実感する。何が起こるかわからないのだ。
 話が終わり、受話器を置いてからエンは舌打ちをした。綺麗な金髪の前髪をくしゃくしゃにかきあげ、どうしようもないと息をついた。
「まったく。あれほど、上のもんが表に立つなといったのに、あの馬鹿兄妹は」
 そこで、燐の方を向いた。
「起きたか」
「おはようございます」
「おはよう。ちゃんと眠れたか」
「はい」
 意外にエンは挨拶はちゃんとする方だった。なんでも過去に挨拶強制がしつこかったからだそうだ。
 和泉になにかあったのか聞きたいが、いいだせない。
「丁度よかった。上に行って魁を起こしてこい」
「え。魁、いるんですか?」
「あぁ。チビは昨日、遅かったから爆睡してやがる。俺はチビがいるときはチビの飯が食いたいんだ」
 禁句を連発しながらその味をほめるのはいかがなものだろうか。それにしても和泉が帰ったのも大分遅かったというのに、そのあとに帰ってくるなんて……
「あの、魁ってなにしているんですか」
 エンはそれこそ冷たく言い切った。
「バイト」
「え、いえ、なんのバイトをしているんだろーってことなんですが」
 あーっと気のない言葉でエンは間を伸ばした。
「何って―――」

 エンは考えた。よもや天照で派遣社員やっていますなんて言えない。派遣社員の年齢制限に微妙に引っかかっているのだ。
 大体、あまり、ジンがやっていることは綺麗なことではない。暴力と欲望の入り交じった世界と渡り合っている。人身売買しかり、麻薬しかり、テロしかり――そしてぴったりなフレーズをひき出した。そう、魁のバイトを一言で言えば、
「子供には言えないこと」
 ――――燐が石化した。エンが目の前で手を振っても瞬き一つしない。
「おい、小娘二号?」
 ぼんっと音がしそうな勢いで燐の顔が、いや、頭のてっぺんからつま先まで全身くまなく真っ赤になった。
 ぴーっと音を鳴らして湯気が出ないのが不思議なくらいだ。
「は?」
 その反応の意味が分からない。そんな変なことを言ったか?
「あ、あの!じ、じゃぁ!きゅあいをお、おこしてきまっしゅ!」
 目を回しながら、よろよろとリビングから出て行った。そして、階段から途中で転け落ちる音がして、静かになった。
「……近頃の若いもんはわからんな」
 まだ二十代の男はそう呟いた。んー、と振り返ってみる。
 魁はバイトをしている。
 魁は深夜遅くに帰ってきた。
 魁は子供にはいえないようなバイトをしている。
 燐がそれを聞いて赤面動揺した。
 ついでに、遊都には歓楽街がある。
 そこから導き出される推測は。
「…………近頃の若いもんは耳年寄り………?」
 生意気だな、と。自らの発言を悔いることなく、また別のところに電話をかけ始めた。



 よろよろと階段をもう一度昇った。
 えーえーえーえーえー?そ、そりゃね、お金を稼ぐにはいいのかもし、しれないけど――!ち、ちがうわよね!だって魁だもんね!魁がそんなことするわけないわよ、そうよ、そうよ。
 火照った頬を手で挟んだ。大分熱い。顔から火がでないのが不思議だ。
 そ、そうよ。実は結構魁って格好いい顔してるけど、ま、まだ子供だもんね!十五才からそんなことしちゃーーってうわーーーーーーー!!
 そうだ、大体魁って見た目もっと幼いし!あぁでもそんな趣味の人もいるってなにーーーー!!ちょっとーーーーー!!!
 い、いや違う違う。魁はそんな子じゃありませんことよ。そうよ、優しいし、なんだかんだ言って甘いしってあれ?それって条件ばっち……………
 燐は壁に頭をたたきつけた。ゴン!家に響く。下で電話中のエンが心の中で腹を抱えているが今の彼女にはあずかり知らぬ事だ。
「い、いたい……」
 でも、ちょっとは正気に戻れたわ。うし。
 今日はやたら暑いわね、と誰もいもしないのに言い訳を言って、顔を手で仰いだ。
 魁の部屋にたどり着く。そう言えば、部屋に入るのも、魁を起こすのも初めてだ。意識するとみょうにあがってくる。うー、魁の料理は美味しいんだから! 自分でもよく分からないが奮起した。
 こんこんこんとノックしながら、大きめの声。
「魁ー、起きて」
 無反応。
 しょうがないなぁ。騒ぐ胸を押さえながらドアを開いた。

 青と白のトーンで統一された部屋だった。置いてある物は必要最小限の物だけ。ただ、本棚がところ狭しといくつも置いてあった。その中身も棚に隙間がないほどぎっしりある。
 元々は魁のお兄さんの部屋で、ずっとそのままにしていると聞いたから、この本の趣味はお兄さんのなのだろう。
 紺と白のストライプの布団に魁が丸くなっていた。燐は寝るときは真っ直ぐ寝る方だ。あどけなく寝る魁を見て、くすっと笑った。猫みたい。
「魁、起きて。エンが怒っているわよ」
 眠っている。そう言えば何時に帰ってきたのだろう?
「んー」
 魁がうめいた。うわ。かっ……
 顔がにやける。やばい、これは、
 可愛い……!
 そこで気がついた。あ、魁、眼鏡してない。
 ぽふっとベットの隣に座ってほおづえをつく。魁は寝ていると一層幼く見える。ひさびさに顔を見た。そう言えば、保健室の時もこんなんだったな。
 だんだん嬉しくなってきて、笑顔が止めれない。あの時は夜だったが、今は朝だ。よく見える。
「うわ。まつげ長い」
 睫毛は男性ホルモンによって成長が決まり、男の睫毛が長いのはある意味当然なのだが、マスカラを必要とする女性はしったこっちゃない。長いものは原因がなんだろうと羨ましいのだ。
 くぴーと寝ている魁の顔をまじまじと見る。目が若干つり目だからきつい印象を与えそうなものなのだが、やはり幼い顔つきをしていれば大丈夫なのだろうか。でも、魁って眉を垂らしている方がなんか似合うのよね。
 魁はなにか、良い夢を見ているのだろうか、にこぉっと笑った。それは喜びといとおしさがあふれ出たもの。
「…………ふ、不意打ちっ」
 でも起こしに来て良かった!
 このままずっと見ていたい。だが、それだとエンがキレるだろう。しょうがない。ぶつぶつ文句を言いながらも言いつけを護った。魁の体を優しく揺らした。
「かーい、おきなさーい」
 ん?これってなんか新婚さんみたいかも。
「くぁ………!」
 自分の想像に悶えた。ちょっちょっちょっちょっと待って。嫌だわわたしったら! うわーうわーうーーーわーーーーー!!!
 あー、暑い、ほんと夏って暑いわね!!
 こほんと咳をして、気を取りなおそうとしたが、
「………だめ」
 魁の寝言で、ぴしっと固まった。もぞもぞと手を動かしている。何かを探しているのだろうか?
「魁?」
 手をついて、上半身を起こした。前も寝言を――苦悶の声を上げていた。同じなのだろうか?
 おずおずと燐が魁の手に手を伸ばす。
「んー」
 眉間に皺を寄せながら、手をぱたっぱたっぱたとベットを叩いた。魁の手が燐の手に触れた。
「!?」
 燐が言葉を失っている間に、魁はいそいそと自分の顔元に近づけた。
 そして
「…………き」
 燐の喉がひゅっと鳴る。息を吐いてから、改めてごくりと鳴らした。
 さ、さ、さ、さっき好きとかい、い、いいませんでしたか!?
 魁の表情は軟らかい。少なくとも、前回の悪夢とは違うようだ。だからこそ燐の心臓が飛び出そうとしている。
 あの時は魁が苦しんでいたから、握った。そこには助けてあげたいという気持ちであり、苦しむ魁が切なくて悲しかった。
 でも今は違う。
 決定的に違う。
 息があがる。目が回る。恥ずかしくって死んでしまう。自分の心臓の音が、全世界に鳴り響く鐘のようだ。目が潤んでくる。
 たまらない。ぎゅっと握る。たった一人の人間がいるだけ、手を触れているだけ。でも、それだけじゃない。
 この人がいる。ここにいる。そばにいる。ふれている。あたたかい。
 その存在で、胸がいっぱいになる。心がこの人を求めて求めて、いっぱいいっぱいになって、"わたし"が押されてきゅっとなる。
 このひとの存在を放したくなくて、胸がぎゅっとなる。とても痛い。蜜みたいに濃厚で、そこから逃げる事なんてできない。絡まって、溶けてしまう。

 どうしよう。
 どうしよう。

 理由とかきっかけとか本当とか偽物とかぐじぐじ考えたって

 知らないとか分からないとか違うとかうじうじ考えたって


 そんなの、関係ない。


 この気持ちが、"偽り"ならわたしは一生――




 恋、できない。




 いつの間にか、燐の顔が魁の顔に近づいていた。燐の視界いっぱいに魁の顔がある。それでも、燐は止まらない。心臓がカウントダウンを刻む。
 魁は起きない。二人の距離は三センチ、二センチ、一センチ―――
 魁の顔が綻んだ。全てを許す微笑みで―――――


「ん、好きだよ」



――――真柚。



 …………………はい?
 冷水を浴びせられ正気に戻った燐が見たのは、あとほんのわずかしか離れぬ魁の顔。
「っっっっっっっっっつ!!」
 ばっと離れる、背中が壁に当たって凄い音がした。
 なななななななな。あ、わたし何しようとした!?えっていうか!!!
 かかかかかか、魁にばれてないよね!?
 見ると、本当にだらしなく緩んだ顔で寝ている。ひ、人があんなことをしたっていうのに!!折角、折角確信がもてたっていうのに!!
 さっきとは違う熱さをもった涙が浮かんだ。

 マユって誰よーーーーーーー!!!

 心の中で絶叫し、口では起きろーーー!!馬鹿ーーー!!っと絶叫し、呑気な魁の布団をひっぺはがした。