章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

02.飛んで火に入る夏の虫ズ


 「走ってください!」
 あぁ、静流はこんなときでも丁寧語なのね。
 そんなことを考える状況じゃないのに―燐はそれでも思わずにはいられない。
 走って走って、驚く人が奇妙なほどゆっくりと見える。自らが作り出す風が髪をたびねかせ―
 こみあがるのは、笑い。
 この世で一番速いと錯覚してしまいそうな快感。
 もっと速くもっと速く。
 俊敏な足は高く、その身を飛ばす。

 ベルがなる。
 燐はドアに身を滑り込ませて、上半身を出した。閉まるのをぎりぎりに引き伸ばした。後から走ってくる静流に手を伸ばす。
「静流―!」
 静流も精一杯、手を伸ばし―

『駆け込み乗車は御遠慮ください』

 気の抜けたアナウンスが流れたときには、燐と静流は電車に倒れ込んでいた。

 コンパートメントに崩れるように入ってそのまま椅子にへたりこんだ。
「五分はきついわ、やっぱり」
 息が上がっている。
 静流は喉を押さえて、時々咳き込んでいる。静流は昔、喉に欠陥を持っていたことがあった。
「大丈夫?」
 背中を摩ろうとしたが静流は片手をあげたのでやめた。そのかわり、うつ向いた顔を覗き込む。
「だ、いじょうぶです」
 息絶えだえに言うせいでちっとも大丈夫そうには見えない。
「何言っているの。マギナ使いは喉が命なんだからね」
 今度はゆっくりと背中を擦った。咳き込む度に背中がはねあがる。しばらくすると静流の呼吸が落ち着いてきて、
「もう大丈夫ですわ」
 微笑みが蘇っていた。
 よし。
 では…
 燐は両手を腰に当ててこんなことになった張本人、静流に渋面を作る。
「どういうことか、教えてくれる?」
静流、明日がお見合いじゃなかった?

 私たちは今、列車の中。


 始まりは、そう。明日には京都に向かわなくてはいけませんから遊びに行きませんか、と電話をかけてきたのは静流だ。
 その時は正直拍子抜けした。

 前夜に『家出します!』と宣言していたのに、どうしたことかと首を捻ったが……
 甘かった。
 静流は一度宣言したことは必ず実行することを忘れていた。

 いつも通り、技都・名古屋駅の周辺の店を回っていた。話しながら時々笑う静流は本当にいつも通りで、家出を思い直したとしか思えなかった。昼、一番人混みが増える時間帯にいつもは避けるのに大通りに向かったとき、静流の顔から微笑みが消えていた。
「燐さん、ここから駅まで、五分で行けますか?」
「五分で?そうねぇ……死ぬ気で走ればギリギリかな?」
 女子の中では一番足が速い。
「分かりました」

 どうしてそんなことを聞くのかと言おうとしたら―人と肩をぶつかった。
これだから、人混みは!
「すいま、せん!?」
 謝ったその相手は、

黒髪は二つにくくられ―視線は丁度目の前に―
髪止めも同じだ―

そう、私だった。

鏡ではない。

ドッペルゲンガー?私、死んじゃう??


ドッペルは私に微笑んで―

『開・偽りの仮面は道を斬り開く』

 二つの声が響いた。身構えたが変化は無く、『私』は微笑んだ。
 いったい何が!?
 問いただそうと『私』の腕をつかもうとする。けれど次の瞬間強く腕を引っ張られた。振り向けば知らない顔。男の子だ。
 その顔は真剣そのもの。
「私です」
 なのに声は静流のもの。その瞳の強さも静流のものだった。
 その時になって初めて気が付いた。静流は家出を諦めたわけじゃない。
機会を虎視耽耽と狙っていたのだ。
 『私』と『静流』は頭を下げ、人混みに消えた。訳が分からない。ただ、分かるのは私が静流の計画に組み込まれているということ。

 静流は燐の腕を取りながら前―駅の方に速足で歩く。
「静流っどういうこと?!」
「しっ。小声でお願いします」
 静流は燐の手に固い紙を握らせた。
なっ?!
 それは切符だった。
 瞬間に理解。
「駅に行けばいいのね。」
 それは、家出する覚悟があるのかという問掛けでもあった。
 必死な静流はうなづき―
「私が乗るまで待たせてください。」
私のの腕を離す。私の心に言葉が響いた。

ready go