章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

07.馬鹿親大騒動


 

「あ、の。ありがとうございました」
寿人はタオルを肩にかけ、Tシャツも変えていた。
ただ頷いた。
「服は今は一応水につけてるが……もう着るのは無理だろう」
「そうですか。服をお借りしてすみません」
残念だが、擦りきれ泥まみれになっているのだからしかたがない。
静流は部屋を見回した。
どこか―アパートの一室だろう。
六畳半の部屋。
静流の感覚からすればかなり狭い。
しかしこざっぱりとした部屋。
いや、物がない、といった方がいいだろう。
あまり屋主の個性が見えてこない。
「あの、ここはどこですか?」
「俺の家だ」
寿人は言い静流に座るように言った。
静流は従い、座布団にちょこんと座ったのだが……
「家?剣崎家は名古屋では?」
「さあな」
また、はぐらかす。
以前、はぐらかされたまま逃げられたことを思い出し、静流はむっとした。
「飲め」
コトンと置かれたコップから暖かな蒸気が出ていた。
「ありがとうございます」
それは透明でねっとりとし、つんっと鼻を刺激した。
一口。
ぴりりと喉に刺激が走るが体が暖まる。
今までに飲んだことがない。
「これはなんという飲み物ですか?」
「ショウガ湯」
今度はきちんと答えが得られた。そのことにも満足を覚え、小さな笑顔がこぼれた。
「おいしいです」
「……で、どこに泊まっているんだ?」
「魁君の所に、燐さんも一緒です」
魁の名前に強いアクセントを置いた。
しかし動揺はなく、冷たく言った。
「水澤は、夜に出歩くなと言わなかったのか?」
それとも
「靴を履くこともできないお嬢様は夜が危険だということも分からなかったのか?」
痛烈な一言。
その物言いにきっと睨み付ける。
「それくらい、分かっています!」
「行動に移せなかったら意味ないだろう」
くやしい。
くやしいくやしいくやしい!!
荒ぶる心のままに、叫ぶ。
「お、お父様に無理矢理っ!」
そこまで言って、静流は唇を噛み締めうつ向いた。
父のせい―しかし自分のせいでもある。
それを思い出した。
寿人のきつい言葉は
静流をえぐった。
言い返せない。
目に涙の膜ができ、瞬く間に膨れ上がり、破れ―
溢れた。
太股の上に置かれた手は布地を握り、
涙はその上に落ちた。
「っく…だって…しかたがないじゃ……ない、ですか!!」
拭っても拭っても―止まらない。
静流が泣きだして、寿人は顔をひきつらせた。
口を開き、形をなす前に閉じられる。
言葉になっていない。
「くやし、いんです。何も、なせっ…んく…ない、のが」
事情が分からない―そもそも興味がない
―寿人はいきなり静流にそう言われても眉をひそめるだけだ。
声をかけるのは諦めたらしい。
「学園に、いけ…たのはっ!私の、力じゃ…なくって!」
ずっと自分や―燐達とで為せたことだと
浮かれて
でも父としては
娘が雅人を知るための場だったのだろう。
「まさ、と先輩がいたっから、で!」
いきなり北條・雅人が出て、寿人は訳が分からない。
とりあえず缶をあけ、飲んだ。
「にゅう、がくしき、っひく…のときには、きっと知って、たんです!」
―私が彼の婚約者だと。
でなければわざわざ来ないだろう。
待ち伏せなかっただろう。
寿人は飲んでいたものを吹き出しそうになり、むせる。
咳まじりに静流に言った。
「お前と北條・雅人が婚約してる?」
静流は頷いた。
彼は言った。
「おめでとう。好条件な相手だな」
「……そうでしたね。貴方はそういう人でしたね」
このスケベ
「…………このアマ……」
握り拳に力が入っている。
しかし、続きが気になりはじめたのか、促した。
「で、なんで嫌なんだ」
「……私だって、雅人先輩との婚約が条件のいいものだってことくらいわかってます」
都市の壁を越えた結婚、ということになるが。
涙は止まり、沸々と怒りが沸いてきたようだ。
寿人は一口のんで、
「で?」
「私が馬鹿みたいじゃないですか!」
「……………は?」
「知っていますか!?雅人先輩は過去に四人の方とお付き合いしてて、
ナンパした数は数知れずいらっしゃるんですよ!?」
「………」
不審そうな視線を浴びせられ、静流は付け加えた。
「調べたんです!」
「相川・静流、お前の旦那は浮気が絶対にできないだろうな……」
ショウガ湯をぐいっと飲み干して、ドンッと机を揺らせた。
「わ、私という者がいながら、
 お、お付き合いなさっていらっしゃったんですよ!」
別れる可能性が高いと知っていながら!
男として寿人は言った。
「結婚も付き合いもまだならいいんじゃないか?」
よくありません!
「わ、私は、小さい頃から婚約者がいると聞かされ、
そ、そんな、こ、恋だとか、お付き合いとか」
息ずまり、顔を赤らめた。
「し、したくても、しちゃ駄目だって、ずっとずっと思ってた!」


「婚約者がいるから、駄目だって!」


また涙が溢れだした。
「ずっとずっとずっとずっと!!
 婚約者が恋愛を楽しんでいた間もずっとずっとずっと!!」
ずるいです。
彼女は叫んだ。
燐にもあかしていない、家出の理由を。
意地悪で陰険なクラスメートの少年に。
「ずるいです!ずっと相手も私を待っているのだと期待して、
 そう思ってきた私が馬鹿みたいじゃないですか!!」
私が今まで律してきたことが無駄だったってことじゃないですか!

また一口飲み、寿人は缶を振った。液体が跳ねる音がした。

肩で息をしているくせに血の気がない。
風呂上りとは見えない。
寿人は冷ややかに言った。
「……つまりは勝手に期待して、理想と違うかったからふてくされているだけか」
ホントにお嬢様だな、相川・静流。
静流は下を向いたまま、固まった。

寿人の言葉はたやすく静流の心を切り裂く。

「人に期待するな。幻想を押し付けるな。お前の勝手で期待して、それが違うかったらキレる?お前は何様だ」

寿人の言葉はたやすく静流のプライドを打ち砕く。

「何か、お前は父親に対してこう叫ぶのか、『違うから、嫌!別のにして!』はんっ人の人生に口出しするなよ」
「な、ならお父様だって……!」
「父親はいいんだ。両親は言っていいんだ。
 お前はお前のものじゃない。親のものだ。
 自分の人生は自分のもの?笑わせるな。
 親がいなけりゃ今お前になにができるんだ?
 服は?食事は?金は?居場所は?学校は?
 全て親が働いて働いて、お前さえいなかったら
 自分の趣味、楽しみ使えただろう金をお前のために、
 誰からも強制されたわけでもなくただその気持ちだけで、
 お前に与えてくれているんだろ?
 お前が何をしたんだ?
 その愛情を知らず、その思いの大きさも知らずに
 ただ親にあぐらをかいて座っているだけだ。
 それで私の人生は私のもの?
 馬鹿いうな、確かにお前のものだろうよ、
 だがそこから親を閉め出すなよ」
寿人が―あの皮肉れ者が親の弁明をしたことに静流は驚いて、硬直したままだ。
「確かにお前のとこなら父親の保身とか色々あるだろう。綺麗な婚約じゃないかもしれない。だが……」
だが父親が娘を信頼できないようなところに送るのだと思ってやるな。

やりきれない、その表現が一番似合う表情。

「……育ててくれる、人がいるだけ幸せだろ」
ふいっと視線をそらした。
「それに北條先輩が婚約のことを知らずにいたかもしれない。
 あの人のことだ。婚約に縛られていると知ったら真っ先に潰しにかかるんじゃないのか」
嫌がっていた雅人を思い出した。
確かにそうかもしれない。
無理矢理な婚約にあの人が昔から承諾したままで、今さら逃げ出すものだろうか。
しかし、なら、何故?
今まで黙っていたのか。

寿人は中身がなくなった缶を置いた。
静流はうつ向いたままだ。



本当はわかっていた。
こんなの言い掛かりにしかすぎないと。
本当に嫌いなのは雅人でも父でもなく、簡単に物事を考えれない自分だ。
寿人の言うように。

暗々たる思いが胸に重くのしかかった。
自分は何をしたかったのだろう。
友達を、知り合いを巻き込んで。
もう決まったことにじたばたして、優しいみんなにつけこんで。
傷付けた。
情けない。
また何も為せなかった。
守られてばかりいる自分が
嫌い。

馬鹿だ。馬鹿だ。
所詮お嬢様なのか。

失望の目を見た
寿人は満足そうに
「と、普通なら言うだろうな」
のたまった。
………は?
寿人は空の缶を両手で潰した。
「別にそこまで考え込まなくてもいいだろ。お前はもう答えを出しているしな」
 だからここにいる。
寿人はにやにやと笑っていた。
にやにやと
落ち込む静流を見て。
――答えと口が直結した。
「じ、冗談なんですのー!?」
「いびり倒す機会をこの俺が見過ごせるわけがないだろう、相川・静流」
しみじみと笑いを噛み締めている。
そんな男に対して言う言葉は一つ。
「さ、最悪ですわ!」
手近にあった茶のみを投げつけた。


「停戦条約を結べ」
 これ以上部屋を散らかすな
静流の攻撃を全てよけきった寿人は息一つ切らさずに申し出た。
「人をはたく前に言って欲しいものですわね・・・」
静流はたかれた頭を涙目で抑えていた。
「男女平等。それに手を出したのはお前の方だ」
投げられた茶飲みやら本やら座布団やらをなおし始めた。
「危険思想とルビってますわ」
「女が男からもぎ取った権利なのだから男にとっては危険だ」
まだぶつぶついっている静流の目の前に寿人は救急箱を置いた。
「足の傷やら消毒しておけ」
それくらいはヒーラーの実習でしたことがあるだろう。
静流が何かを言う前に寿人は背を向けた。
少女は一応礼を言う素直さは持ち合わせている。
しかし、
寿人は思う。
その素直さを受け取る素直さがこちらにはない。
静流の顔色は怒りや発熱行動で血の気が戻っていた。
そしてそのために喉が渇いたであろう少女のために台所にいき、新しいグラスを取り出した。
それを流し台に置いて、冷蔵庫を開く。
目の前には一週間ほどの食料が詰まっている。
扉の裏には飲み物の缶が並んでいた。
その缶の列をみて少し考えをめぐらす。

やれ、と血が囁く。
やめとけ、と理性が囁く。

どちらも魅力的。

考えあぐね、
「相川……天照製【飲んでさけべ!】飲むか?」
責任を押し付けた。
まだ怒っているのか背を向けていた。
救急箱のふたが開いているところを見ると
ちゃんと手当てをしているようだ。
「……はい。よろしければ」
そっと缶のタブをあげ、注ぐ。
泡の弾ける気持ちの良い音。
そしてもう一度冷蔵庫に向かい、やかんから注ぎ込みグラスを満たす。
包帯を巻いている静流の前にスカイブルーのグラスを差し出した。
流石に手際がいい。
巻き方もしっかりしている。
「あの、どうしてあそこにいらっしゃったんですか」
また、“どうして”か。
嘆息。
寿人は静流の“どうして”が苦手だった。
あの鏡のような目で見られると
なんでも見透かされそえな気持ちになって落ち着かない。
……本当に多い。少しは自分で考えろ。
それとも性急な答えが真実に近いとでも思っているのだろうか。
「たまたまだ」
答えにならない答え。
静流を見ればまた不機嫌そうに口をとがらせていた。
答えを返す気はなかった。
だいたい、猫を被っている女は元来嫌いだ。
他のクラスメイトとは談笑するくせに自分と話すときだけ喧嘩腰になる。
もっともいまさら静流と談笑する気はさらさらなく、
考えただけでも―あり得ない。笑えない冗談だ。

ただ、自分とただ一つの接点があるから。
それだけだ。

「たまたまですか」
しつこい。
寿人はそっぽ向いた。

新しく手に入った玩具の調節をしていたら悲鳴が聞こえた。
そしてマギナの揺れ。
声が妙に知っているものだったから見に行っただけ。
まさか相川がいるとは思いもしなかった。
あとは義理で助けた。
流石に見知った人間が―それも自分にはいつも喧嘩腰のねちっこい奴が
あの程度の人間にいたぶられているのは面白くない。
いたぶられている自分がその低俗な奴より下の様な気分になる。

だから、所詮は自己防衛のため。

思考停止。
その結論に満足した。



静流はその差し出されたグラスを覗き込んだ。
スカイブルーというのだろうか?
透明な空に水泡が上がっていく。
吸い込まれそうなその色の美しさに見ほれた。
どんな味がするのだろう?
でも、もったいない。
どきどきしながらそっとグラスに口をつけ―
「毒は入ってないぞ」
「疑ってませんわ!」
寿人に見せ付けるためぐっとグラスを煽り
寿人は小声で呟いた。
「……アルコールは入っているが」
静流は生まれて初めて噴き出した。
苦い。
喉が干上がる。
「ひあっぁ」
生理的な反射で涙が―こればっかりだ―
お酒を飲んだ。
頭がガンガンする。
寿人はそこはかとなく満ち足りた顔をしていた。
「なんだ?今日、俺は絶好調か」
恨みを込めた目で下から見上げる。
笑いをこらえた微笑で、
「……お前が飲む、と」
「先にお酒と言ってくださいぃ」
「天照製【飲んで酒べ!】と」
静流はタイミングよく差し出された麦茶を奪い取った。
「何なんですの漢字変換罠ですのそうですの」
よくは知らない。
だが一つわかったことがある。

寿人は生粋の遊都人だ。


「も、もう帰らせていただきます!」
寿人が絶好調だとすれば自分は絶不調である。
調子が崩れてしょうがない。
「わかった。送っていこう」
紳士的な発言。
静流の脳内辞書で陰険の代名詞を筆頭に掲げている少年の言葉に
頭の中で落雷が落ちた。
思わず頭を両手で押さえる。
「大丈夫ですか、私。アルコール過剰摂取で幻聴症状が……?」
「落ち着け相川。そこまで過剰じゃない」
吐息を一つ分置いてから、立ち上がった。
帰るというのならそれなりのことをしなくてはいけない。
服を水から上げておかないと。
しかし寿人は別のことを先に言った。
「相川、一つ聞くが……護衛の武器は持っているのか?」
静流は小さな指にはめた【杖】を見せた。
寿人が形容しがたい顔をした。
敢えて言うなら、なに寝ぼけたこといってやがる、だろう。
「……役に立ったか?」
う゛
確かに役に立ってはいない。今のところ。
静流としては【杖】は一種の牽制としてもっている。
【杖】はマギナ使いの証。
攻撃陣が出来るかなんて相手に分からない。
寿人は半目でつぶさに言った。
「攻撃する覚悟のないお前がとっさに使えるわけがないだろう」
う゛
「【剣】は?」
首を振る。弱冠顔を顔面を引きつらせながら。
「苦手ですので」
「どうせ新堂に任せっきりだな」
う゛
「このご時世にのんきな奴だな。護身術とか何か習わなかったのか?」
「……拳銃なら少々」
「どんな」
「22口径自動式拳銃です」
護身用の銃である。これなら扱うのに自信はある。
一方燐は飛び道具が苦手である。
寿人は納得の顔を見せたが、
「で、いまどこにある?」
静流は言いあぐねたが、
「・・・・い、家に」
寿人は呆れて声が一瞬でなかった。
先ほどの暴漢達に襲われているときに落とした、といわれた方がまだ救いようがある。
アホか!と怒鳴るのをギリギリ飲み込んだ。
「……家に置いてて鉛が出るか?」
「……いえ」
怒鳴られた方がまだましというものだった。
静流としては銃に発信器が取り付けられている可能性を疑った行為だったのだが。
この事を寿人に言えば雷が落ちる確信があった。
「なら、今の状態でも撃てるか?」
言葉の意味がよく飲み込めなかった。
寿人は言い直した。
「眼鏡がなくても大丈夫な……」
のか、とは続かなかった。
静流の顔が見る見るうちに赤に染まった。
ばっと両手で目元を探った。
いつもある眼鏡はもちろんない。
なにしろ寿人が助けたときにはなかったのだから。
少女は固まっていた。
「………ないです?」
「ない」

少女の絹を引き裂いたような悲鳴が響き渡った。

少女の行動は早かった。
胸に握り締めていたタオルに顔を埋め、寿人に背を向けた。
「いやーーーーー!いやーーーーー!見ないでください!」
耳を両手で押さえた寿人は本気で蹴り飛ばそうかと考えていた。
「もう、遅いだろ」
おそらくは、眼鏡になれている人間がコンタクトした時の感覚なのだろう。
元々視界がクリアなだけに眼鏡をかけていると無意識に思ってしまうものなのだ。
静流は肩が震えていた。意外に小さい背中を眺めていた。
「け、剣崎君、眼鏡ありませんか?」
「俺は視力が良くてな。それよりこっち向け」
話が進まない。
小さな頭が左右に動いた。
「……目が悪くないなら眼鏡なんて必要ないだろに」
「私には必要なんです」
寿人は内心、うなずいた。
・・・・これは弱点を見つけたな。
喜ばしい。
しかしこれでは話が進まない。
それは全然喜ばしくない。
寿人は仏頂面のまま告げた。
できるだけ穏便に。
「気にするな」
 素顔どころかそれ以上も見た。
ボソッと告げられた直後に
神速で投げられたグラスが爆ぜる音が響いた。
思わぬクリティカルヒットだった。