ジリリリリリリリリリ!
その警報が学園を戦場に変えた。
桜花寮の寮母、水無月 千里は素早く裾が膝丈まであるコートを―この初夏になった時期に着込んだ。
色は空色、背に緑の黒髪が流れ、色の対比が美しい。
このコートは防護服なので緊急時には着なくてはならない。
パンプスではなく頑丈なブーツを履き、外へとびだした。
生徒達を迎えに。
轟音が辺りを震わせる。
無線から耳に入ってくる情報を吟味することはない。
ただ、己の道を飛ぶだけだ。
『開・我が道と為れ風』
風が、優しく、力強く千里の体を抱く。その瞬間、千里は直線の歩道を宛ら飛行機の様に走り抜け、次の瞬間、爪先が地面を蹴る。
風が千里を空へと導いた。
空を自由に飛ぶ。
それは古代からの人間の野望だった。
しかしマギナをもってしても、空を飛ぶという行為は困難なものである。
重力に打ち勝つ力、数十キロもある体を空中に持ち上げる力、その体を空中に維持する力。
そして、進む方向に行く力。
風の抵抗に耐える力。
空を飛ぶ、言葉にすればこんな簡単なことを現実に可能にできるのは、一握りしかいないマギナ使いの中からまた一摘みの人間しかできない。
そして、千里は人類史上初めての『空を自由に飛んだ』人間だった。
千里は一直線に校舎へと自分を導いた。
轟音が近くなってくる。
焦りはない。
なんとかなるのではなく、なんとかすると決めていた。
夕方の空気は湿り気を帯びて、雲は暗い。雨の降り出す兆候だ。
雨が降れば自分は不利になる。
雨が風を分断するのだ。
生徒の列が下に見えた。
千里は肩を下げ、纏った風を減らし地面に落ち、瞬間に体を浮かせ、立つ。
教師―マギナの戦いに為れていない―の青ざめた顔に安堵が広がった。
千里は肩書きは今でこそ学園の寮母となっているが、過去においては、あの英雄とともに戦ったガーディアンなのだ。
「水無月先生、よかった。なにがあったのか、さっぱりで」
千里は髪を払いつつ、その教師に近付いた。
安心させるようにできるだけ優しく微笑む。
先導者がしっかりしなくてはいけないのだ。
事は冷静な判断を必要としていた。
「大丈夫ですか。早く、桜花に向かってください」
援護します。
教師は頷いた。
ようやく、ガルムに襲われたとき、自分達だけでが戦わなくてはいけないという圧力から解放された、とでも思っているのだろう。
立ち止まっていたことから生徒達から不安の声が上がった。
無線から、無情にもガルムがこちら―自分達の方向に向かって来ていると報告があった。
千里は、迷わない。
「先生達は、このまま―歩道をそれて桜花まで向かってください。」
ベルトで動いているため、舗装された歩道よりも草むらを行った方が僅かだがガルムの速さは落ちるだろう。
その意図を察したかはわからないが教師達は頷き、生徒達の誘導し、草むらを掻き分けていく。
「水無月先生も、早く」
最後尾にいた女教師が一向に動かない千里を促した。
しかし、千里は一点を見つめ、口を動かす。
「先生、早く行ってください。―来ます」
一人残った千里は仁王立ちしたまま、ガルムを待った。
そして、角を曲がったガルムが舗装した歩道を踏み砕きながら現れた。
『開・伸、深、侵、針』
一筋の風がガルムに伸び深く侵す針となりて、ガルムに襲った。
ガルムは突然の風針の嵐に分厚い装甲がひびわれ上体が浮く。
割れた装甲が地面に落ちる騒音に紛れて千里は第二打を放つ。
手を空に高く掲げ、一気に振り下ろす!
『開・列、劣、烈、裂』
真空の刃は列となり装甲の劣化した部分を烈しく裂く。
ガルムは耳が聞こえなくなりそうな大音響をたてて内部構造を巻き散らしながら崩れ去った。
残響が消え去ったのを聞き届け、千里は深く息を吐いた。
心臓がが今になって激しく暴れる。
――実践は、久々だ。血が、暖まっていく。
先手必勝、それが千里のスタイル。
千里が失敗したとしても、後の者がケリをつけれる。
千里は顔に張り付いてくる軽く汗張った髪を払った。
「どこのどいつがこんな物を放し飼いにしてるんだ」
苦笑いすら浮かばない。
何より子供達のいる、この場所で戦争を彩る物があるのに嫌悪する。
昔は、そこまで開発されていなかったからだが、こんなものは学園内にはなかった。
神がみたら怒るな。
でも自分には止める権限はなかった。
彼は、ここにはいない。
五年前に誰にも行き先を告げずにどこかに行ったまま、それっきりだ。
正直、あの頃から、学園に戻るまでのことを思い出したくない。
――大丈夫、絶対帰ってくる。
そうくるくる身を翻して笑った親友も、もういない。
『仲間』が次第にバラバラになっていった。
最初は史だった。
彼は彼の夢のため政府に入った。
次はマドカだった。
……大切な人をミスで亡くしてしまったことを悔いて、ヒーラーを辞め、医者になるといって消えた。
そして、神。
突然、いなくなった。
速水には、言ってくると声をかけらしい。
私には、何も言わなかった。
條太郎も、神の後を追うように消えた。
桜は、死んだ。
英雄の帰りを信じて疑わなかった彼女は三年前に、癌で亡くなった。
見付けたときには手遅れだった。
その時だけ、マドカと史は帰ってきた。いや、葬式に立ち会っただけで、すぐに自分達の世界に帰った。
でも。
神と條太郎は来なかった。
速水は荒れた。
彼等を呪い、怒り狂った。彼は決して彼等を許さなかった。
千里は、諦めた。
あの時、わかった。
あの二人は、こちらと決別したのだと。
自分にできることは、彼等が帰ってきた時に一発殴って許すことだけだ。
速水とは違い、千里には彼等を憎むことはできない。
彼等との楽しかった日々を忘れることはできない。
彼等と見た、朝焼けを忘れることはできない。
ただ、怖くなるときがある。
速水が怒りを見せているから、自分が怒れないだけではないか。
彼等を本当に罵倒せずにいられるだろうか。
千里は分からない。
ただ、彼等との思い出の場所である桜花に止まるしかない。
ここにいれば、思い出が苦しみを和らげてくれる気がした。
千里は、思う。
ガルムの装甲から矧がれ落ち、舞う塵粉の中、昔のように戦場に立ちすくんだ様に。
今、彼女は一人だった。
冷たい何かが千里の頬を流れた。
涙ではない。 はっと意識が外へ向く。
冷たい雨が初めは小降りで―次の瞬間、どしゃ降りに変わった。
服が水を含み、一気に肌にまとわり付く。
ぼうっと立ちすくんでいる場合ではない。
彼女は寮母で、子供達を守る義務がある。
千里は残ったガルムを一掃しようと、空に飛び立とうとした。
その時だった。
天地を揺るがすほどの轟音が学園に鳴り響いた。
「きゃっ」
とっさに耳を両手で塞いだ千里だったが、その可愛らしい悲鳴を耳は拾っていた。
むろん、自分ではない。
眉を潜め、爆発の余波に顔をしかめ、声がした生け垣の向こう側を覗きこむ。
その者達と視線が合う。
「……何をしている?」
何故、ここにいるのか。
何故、この組み合わせなのか。
草むらにしゃがみこみ、隠れていたのは、彼女の生徒達。
相川 静流。
剣崎 寿人。
この二人組だった。
「……この非常事態中に逢い引きか」
やるな、剣崎。
慌てて静流が手を横に振った。
「ち、違います。私が無理を言って来て頂いたんです!」
「な、なんと。相川の方が積極て…」
「先生、この騒ぎは後どのくらいで終りますか」
千里の言葉を遮った寿人は破壊されたガルムを向いていた。
「そうだな、監督生やら動いているそうだから」
そろそろだろう。
寿人は肩の荷を下ろす様にふか深く息をついた。
寿人は濡れた髪をかきあげたとき、不自然な陰に気が付いた。
振り上げられた腕。
固まった寿人の視線に気が付き、千里はとっさに二人を抱え、横へ飛んだ。
―さっきの轟音に、紛れてきたか!
自分の鈍さに閉口する。
小酌な。
千里の腕がはなれ、二人は歩道にたたき付けられた。
しかし、先ほどでいた生け垣は見る影もなく押し潰された。
跳ね上がった泥が辺りに散乱する。
千里は千里は静流と寿人を放し、地面に倒れる事なく片手を軸に、一気にガルムに向かって駆ける。
飛んでくる泥を一手で払い、姿勢を低くしたまま力ある言葉を唱える。
『開・伸、深、侵、針』
風の鋭い針はガルムのベルトに辺り―跳ね返った。
―さすがに足はマギナ防御が強いか。
『開・暴虐なる龍の戒め』
今までにない規模の陣が崩れ、マギナを開放する。
閃光の後、突如としてガルムを中心に竜巻が発生した。
ガルムはその質量から舞い上がることはなかったが、身動きが取れずに腕を上下に振るが……
「喰らえ、龍」
久々の餌だ。
ガルムの腕が竜巻に触れた。高速で回転している風は、雨をも含んでいる。
高速で動く水は、鋼鉄をも容易に貫く。
音はなかった。
瞬く間にガルムの腕は細かい穴が開き、崩れ去った。
そして、雨音のように、轟音が鳴り響いた。