章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

01.ただいま、素晴らしき故郷


 雲と夕焼けによって橙と紫が織りなす見事な錦絵の空は時間が経つにつれ、藍色のベールに包まれてゆく。眼下に拓けた町並みは次第に灯りが大通りに沿ってともっていった。
 しかし、大通りから外れると灯りは極端に少なくなり、闇に埋もれていく。その光景はまるで光輝く栄光の導きがまっすぐにてらされているようでもあった。
 彼、北川 啓吾はこの光景が好きだった。どんなに疲れていても、これを見れば疲れに埋没してしまいそうになる彼の夢が瞬く間に蘇る。だからこそ、この光景がよくみえるこの場所に研究所を作ったのだ。
 研究は最終段階に来ている。
 彼の研究、それはマギナによる病気や怪我の治療だ。
 いわゆる癒しの陣は二つのタイプに分かれる。一つは遺伝子情報と健康時の肉体情報をあらかじめ手にしているヒーラーが傷付いた箇所にその健康情報を『転写』する方法。広く安定して使うことができるが、あらかじめ情報が書き込まれた医療カードを入手しなければならない、初見の怪我人を治療することができない、など急な対応を迫られるときには無力に近くなる。しかし、ほとんどのヒーラーはこのタイプの陣を使う。まだ安全かつ確実だからだ。
 そしてもう一つは音の応用。
 マギナは声―音の揺らぎによって活動が活発になり、細やかに活動する。そして音は分子振動とゆらぎのこと。特定周波数の音は分子を特定の運動へと導く。極端な話、肉体も分子の塊でしかない。だからこそ、この音で――音を引金に持つマギナの揺れで傷を癒すのも可能なのだ。
 この陣は癒天使、九鬼 マドカが生み出したものだ。朗々と、そして高らかに詠われたその力ある言葉はほとんど歌そのものだった。よってこの陣を歌陣と呼ぶようになる。
 幼さを残した美貌にくわえ旋律が波紋し、波打ち、傷をたちどころに治したその光景は、まさに天使降臨。この力は『転写』と違い体の内側から癒すことができると言われていた。しかし、この力ある言葉ならぬ力ある歌はずば抜けた歌唱力とマギナを操る技術が必要とされ、使うことが最も困難と言われている。あの九鬼マドカですら使用するときは、歌陣朗詠補助隊である【聖歌隊】を必ず配置していた。

 北川はこの陣をもっと自由に広く使えるようにしたかった。初見の患者を治すことができるだけではない。従来の陣では肉体強化といっても、肉体の外部から補助するしかなかった。しかし、歌陣で本当に体内に作用を及ぼすことができるというのなら、体が不自由な人々の完治を促すことができるはずなのだ。
 そう、遺伝子すら分子の塊にすぎないのだから、簡易に遺伝子操作だって後々可能になるはずだ。
 本当ならば九鬼 マドカに協力を得たいところだが、表舞台を去ってから彼女がどこにいるのか、何をしているのかわからない。一から研究していくしかなかった。

 九鬼 マドカが何故表舞台から消えたのかは知らない。しかし彼女がいなくなったせいで医療系陣の開発がどれだけ遅れたかを考えると憤りを禁じ得ない。

 その道は厳しかった。マギナを動かすのは、音程か旋律か。どのような音が、陣が肉体を癒すのか、傷を治すのか。歌陣の初歩を使えるヒーラー達の協力を得て、何とかやってきた。

「もう、少しだ」

 北川が自分の力に酔った声で呟いた。あと少し、あと少しで九鬼マドカ以上の名声を、地位を得ることができる。科学者に潔癖など必要ない。金とコネが無ければやっていけない職業なのだ。地位も名誉も金も有ればあるほど研究は進む。自分が手に入れるだろう栄光に思い馳せる北川に電話の音が突如現実に立ち戻らせた。電話は閑散とした部屋に警鐘のように鳴り響く。訳の分からない不安がかき立てるように、鳴る。
 部屋に灯りはない。町の星々を見やすくするためだ。その呼び鈴は冷たく響く。自分の瞑想を妨げられた北川は忌々しげに電話に出た。ここの研究費を出している企業かもしれないからだ。
「もしもし、北川です。一体なんでしょうか」
 しかし、返事は帰ってこない。
「もしもし!聞こえていますか!」
 電話の向こうで咳き込む音がかすれて聞こえる。その音が、さらに北川の不安を助長した。
『……!に、逃げろ!』
 あとはなにかがひしゃげる音がして突然切れた。
 な、
「ぉ、おい!」
 呼び掛けるが電話はただ不通の音を繰り返すのみ。通信元は…ビルを警備させている男だった。
 クーラーがついているのに汗が一筋流れ落ちる。
―逃げろ。
 まさか、とそれだけが頭を帆走する。最悪の事態を考え、冷たい汗が背に流れた。北川は震える手で慣れ親しんだパソコンを起動させる。
―早く早く早く!
 ディスクにメモリースティックを差し込み、今までの研究データを書き込ませる。最新のデータに更新するだけだ、五分もかからない。
 そして手近にあった革鞄の中に重要な書類の束を詰め込む。
「あっ―」
 震える手から滑り落ちる紙束―それは暗闇の中、コンクリートの床に白く白く浮き上がる。北川は悪態をつき、書類を掻き集めようとひざまづいた。
「くそっくそっ」
一体何なのだ。
「――お手伝いしましょうか?」
「あぁ、頼む、よ?」
 ひっそりとかけられた声に何気無く返事を返した北川ははっと顔をあげた。丁度、ドアの側に少年が壁に身をもたれかけてじっと北川を見ていた。――知らない子供だ。子供であるが故に企業の者でもない。
「き、君はダレだ!どうやってここに!」
 上擦ったのは恐怖よりも、気が動転したからだ。少年は皮肉るように意地悪く笑った。薄い、冷笑。
「俺、か?」
 さえずり、少年は北川に向かってゆっくりと近付いた。闇に溶ける漆黒のウインドブレーカーがその歩みの度に翻り、はためく。その人間味を呼び起こさない不気味さで、北川は跪いたまままったく動けなかった。
 それは蛇に睨まれた蛙の様であり―それは王の前に引き立てられた罪人の様でもあった。
 少年は外からの淡い光源によってその顔の半分を照らされた。
「俺はあんたをぶち壊しに来た、小英雄」
――なんてね。
 それは気負いもなく威勢堂々たる風格であった。