章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

01.ただいま、素晴らしき故郷


 大通りから脇道にそれて、袋小路のその向こうには住宅街がある。旧世紀からある下町だ。ドブ川にかけられた石橋を渡り、小道のそのまた奥。
 そこにはこじんまりとした病院がある。看板にはただ『病院』とだけが書かれ特別な名はない。この地区周辺にはほかに病院がないので別に住人達は困らない、らしい。
 魁は身軽な格好で歩いていた。荷物はリリィに預けていた。時間は八時。本来、個人病院は閉まっていてもおかしくない時間だが明かりはともっている。いわゆるここの医者は裏医者でもある。犯罪者だろうとなんであろうと報酬さえ払えば誰でも診る。つまり、夜の方が患者が多い。
 すっかり暗くなった空のもと、魁は病院に入った。本来は患者の到来を告げる鐘がなる。
「ただいま」
 魁は診察室を覗きこんだ。白い机にはカルテの山が築かれている。珈琲と煙草の混ざった香りに魁は眉をひそめた。丸い回転式の黒い椅子に座っている人間を通りすぎて窓を大きく開け放つ。
「診察室で煙草すったら駄目だろ、エン」
 エン、と呼ばれた青年はサングラスを光らせた。
「帰っていきなり説教か。お前も偉くなったもんだな、ジン」
「ジンじゃなくて魁、だ」
うるせぇ。
 エンは立ち上がり肩を回した。ばきぼきと恐ろしい音がなる。
「あぁ、おかえり。下僕。部屋の片付けしとけよ」
「……うわぁ、俺ってほんと召使い」
魁はがっくりと肩を落とした。

 エンは医者だ。この病院を一人できりもりしている、態度は悪いがやり手と評判の医者だ。しかし、彼を見て誰も医者だとは思わないだろう。
 二十代も後半にさしかかったところ、と若いせいではない。金髪長髪、耳にはピアスがそれぞれ5個は並び、極めつけにサングラスをかけた人間を誰が医者と思うだろうか?しかもはおっているのは白衣ではなく黒衣だ。
 間違いなく、チンピラ、ヤクザの下っぱ、を連想させられる。しかもこの横柄な態度。
 しかし、彼は正真正銘、資格を持った医者だった。
 
 魁は変わらないエンに溜め息をついて、とりあえず机にのったカルテの山を片付け始めた。エンはその様子を診察用のベットに寝転び、見ている。決して手伝わない。
 魁は久々に帰ってきたのだから、もうちょっと懐かしんでくれてもいいのに、と思った。
「今日、歌陣の研究している奴を捕まえた」
 歌陣。そのフレーズにエンが視線を魁に向けた。そして戻す。
「はっ。どうせ人体実験しまくりだったんだろ?」
 魁は肯いた。
「アホな奴もいたもんだな。んなやつ社会のゴミだクズだ」
「エンがいうか、普通……」
なんかいったか、ガキ。
なにもいってないよ、エン様。
 視線を合わせない魁を呆れた目で見てエンは続けた。
「大体な、人間なんざ体質が多様過ぎー個体差ありまくりーで実験動物にはむかねぇんだよ。するだけ無駄だな。そもそも実験動物っていうのは生きた試薬、生きた秤だぞ?んでもって実験に個体差が無いようにするのが良い実験で良い研究だ。マウスとか、近親交配かけまくってほとんど同じ遺伝子の個体をわざわざ量産しなきゃなんねぇ意味を考えろってんだ」
人体実験だと?リスクが高いわコストも高いわ、いいとこ全然ないね。
 へーっとしか言えない魁はあえてそのままその話を流した。それに、聞きたいことは、本当に会話したいことは別にあった。
「…エン。ジョーカー、どう?」
 その言葉の陰。感じ取ったエンはふざけた調子から医者としての顔を見せた。
「良くもなく悪くもなくだな」
 そっか、と魁は呟くだけ。
 悪くなっていない、それだけでもいいことなのだ、本当は。
「イソラは?」
「連絡なし」
 イソラはエンの義妹だ。冬頃にどこかに行ったきり帰ってこない。これはいつものことなので誰も心配していなかった。ふっと息をついて魁はさらに聞きたかったことを聞いた。
「エンは新しく人を引きずり込むの、どう考えてる?」
「別に。狐が必要だと思うなら、入れればいい」
 冷たい。
 エンは干渉されたくないがために人に干渉しない。魁は、そっか、とうなだれた。カルテを奥の部屋になおそうと、扉にくぐろうとしたとき、エンが紫煙と一緒に言葉を吐き出した。その声はたばこではない、苦みがあった。
「ジン。許してやれ」
「許す?」
 エンは虚空を見たまま続けた。
「お前が学園に入った。レギナのこれからのパスワードも手にいれれると分かった。英雄の遺言の実現は確実に近付いてきている」
 魁はカルテを持ったままエンの話を聞く。エンがいうことは何故かいつも当を得ている。
「人ってのは不思議なモンだ。目標がまだ遠くにあるうちはがむしゃらに頑張れる」
だがな、
 苦笑した。
「目標が達成できる、と思った瞬間から無用の心配にかられる。ゴールが近付けば近付くほど、な。俺達の中で狐が一番微妙な位置にいるから、よけいだ。狐は――怖いんだよ。だからやたらと気を回してしまう」
だからお前はただ支えてやれ。
「エン……」
 その言葉に魁は感謝、
「俺は絶っ対にしないからな。馬鹿が移る。狐の世話はお前がしろ」
しなかった。
 肩をもう一段おとして片付けを再開した。
「あはは。やっぱりエン様だぁ、期待した俺が馬鹿だったっ」
涙声です。
「ジン」
呼び掛けと共になにかが投げられた。
銀色の弧を描く。
魁は片手でそれを受け取った。
「お前の家の鍵だ。場所は後で地図を渡す」
 魁は訳あってこの病院を出て、一人で暮らしている。学園に入学する前は週に一回病院に帰るようにしていた。
「目、どうだ?」
 それは目の治療も兼ねていた。

 うっ。

「…絶好調?」
「目が泳いでるぞ」
こっちに来い。
 魁は素直に患者用の椅子に座った。ここでいやがるとメスが飛んでくる。
 エンは電灯を消し、サングラスを外して魁の向かいに座った。魁はすでに眼鏡を外している。
 角膜を見ながらエンは質問した。
「っち、この馬鹿。マギナをむやみに見るなっつってんだろ。どのくらい見た?」
「えーと。授業一般」
「そのぐらいでこんなにずたぼろになるか。ボケ」
「…ガルム、マギナ兵器を倒すのに少し」
「……で?」
う、ごまかせないし。
「……英雄の再来達のマギナを見た。っでもその時はあまり使わなかった!」
 エンはペンライトを胸ポケットになおした。
「発作が起きたのは?」
うぅ。

 魁は縮こまった。
 全部、ばれてるし。
「…再来達から逃げた後に一回だくぇ!」
 拳が頭に来た。舌を噛んだ。
 血、血が出た。
 口内に広がる鉄錆の味。痺れる舌を使って言った。
「いひゃい。」
「痛くしたから当然。」
医者のくせにー!!
 エンは電灯をつけた。
「ジン、マギナを極力見るなと言ってんだろ。なんのためにわざわざこの俺様が体術を教えてやったと思ってんだ?」
「マギナを使わなくても生きのびるようにです!」
「そうだ。ビバ瞬殺がキャッチフレーズだ。違うか?」
違いません。
「まぁ、ガルムの件は許す。むしろ女を守らなかったら……な?」
 メスが頬にそえられた。それはひんやりとしていて…
言外の意味ってこんなに怖いモンなんですね。
 魁は引きつった顔でうなづいた。
「だがな」
 ぺちぺちとメスの側面で頬を叩かれる。
「生徒会ぐらい、マギナなしで撒けよ。今の生徒会はお粗末だと狐から聞いたぜ?」
 心なしか低くなっている美声。
「や、でも再来って言われてる人達で」
「英雄の再来なんざ、いねぇよ」
あいつの再来なんか、いない。
 繰り返された厳しい言葉に魁は息を飲んだ。魁の態度が気に触ったのか、エンは前髪をかきあげて―苛つきを隠そうともしないで吐き出した。
「ふん。とにかく、こっちにいる間に目を休めておけ。いいな」
あした、精密検査するからいろよ。
「でも仕事が!」
「…五円陣以下、だ。これ以上はするな」
 陣は円陣の数が多ければ多いほど、より強力なものとなる。五陣ならば、強さ的には中の上と言ったところだ。

  それくらいなら、なんとか仕事できるな。
 魁は頷いた。

 都市のマギナ濃度はルトベキア学園よりもだいぶ薄い。なぜならルトベキア学園はレギナがマギナを操作し、ルトベキア学園に集めているからだ。マギナが多ければ大量に使われても不足することもなく、また多い方がマギナ発動による効果が弱くなる。
 相反することだが、実はこの条件は大切なのだ。陣錬成が失敗したときなどの安全を考えるといい。マギナ濃度が薄ければ陣の威力は大きくなり被害が広がる。学園と称している以上、安全にも配慮しているのだ。
 またマギナ濃度が薄いため、魁は学園でつける極太黒眼鏡をつけなくてもいい。そしてサングラス程度の不透明度でもいい。
 陣の威力が上がるために学園では普通の陣も強力な陣となる。だからこそ、目に致命的な欠陥を持ちながらも魁は仕事―ジンになれるのだった。

「ジン」
「なに?」
エンは天井を指差して、
「後で狐の部屋を掃除しといてくれ」
「え、うん」
どうかした?
「いや、片付けが面倒でいろいろ荷物を狐の部屋に押しこんでたらな」
うわ、嫌な予感。
 エンはどことなくはにかんだ嬉しそうな顔で続けた。
「狐が埋もれて見えなくなった」
 意識が一瞬飛んだ。
「ぇ、エンは医者だろー!?患者になにしてるんだよ」
 言い捨てながら魁は階段を駆け上がっていった。

 一人残されたエンは、その部屋に唯一あるパソコンに告げた。
「良かったな、愛されてるぜ、狐」
 沈黙を保っていたスピーカーから疲れた声が応じた。
『せやな、でもお前には愛されてないってわかってもたわ…』
ひどいわ、ホンマに。

  そして二階で少年の叫びが久々に故郷の夜の空気を震わせた。