章・過去が眠る楽都市で踊り狂え

08.戦の夜は長く暗く


 

 和泉はリリィに片手で抱きしめられていた。いや、捕まえられていた。少しでも力を緩めれば、和泉は飛び出してしまうだろう。それはいけないことだ、とリリィは判断した。危険は限りなくゼロに近くなったとはいえ、ゼロではない。
 あの一瞬で少女の周りは黒ずくめの者達に囲まれ、剣を突きつけられている。そして、玄関ホールの至る所びっしりと銃口が彼女を狙っている。一声――いや、手をおろしさえすれば、彼女の命――体は一瞬にして塵となるだろう。
 肩の故障があまりひどくないと良い、と判断する。史上最高傑作のDOLLは風よりも早く和泉を抱え、必殺の雲から逃れた。その際、わずかに遅れた。陣の発動感知能力は陣が出来る直前にしかセンサーに引っかからない。それを考えれば上出来といってよい反応速度といえただろう。よゐこスタンプがもらえるはずだ、とリリィは判断する。
 リリィの肩から背中、肘にかけて焦げ、少しえぐれたが、それは些細な事だと判断する。DOLLなのだ。修理が出来る範囲だ、と。

 しかし、それよりも早く、加速を促すように押されたことをリリィは感じた。それがなければ顔や胸も破損していただろう。

 そして初めてその後を見た。リリィはまず和泉の状態、そして賊の状態確認を優先し、最後に現場あとを見た。

 見て、絶望した。

 見て、己に失望した。



 ぽた
    ぽた
  ぽた

 白いタイルに鮮血が滴っている。

 痛いほどの静寂が、受付ホールを満たした。
 百合の香りは鉄さびの異臭にかき消された。
 
「あ、あ・あ・ぁ!!」
 反響する。和泉の悲痛な叫びは静寂を切り裂き、各々に衝撃を与える。これは現実なのだと、悪夢ではないと。

「いやや! ――和久兄さん!!」

 左肩から、深紅の棒が突き出ていた。その先はリリィと和泉を向いている。そう、腕がある位置に、焦げ裂かれ穿たれ削げ落とされた深紅の棒がある。

 それが、和久の左腕だと認識する。否応もなく認識せざるおえない。

 緊急治療班! 和泉だけが叫ぶ。叫ぶ叫ぶ。誰もが呆然と立ちすくんでいたその中で、和泉は動く。彼女以外は気圧されていた。近藤ですら、息をのんでいた。

 和久は立っていた。乙女を守る盾はなおも起ち続けていた。痛みと衝撃でショック死を起こしても不思議ではない状況で、和泉とリリィを庇い立つ。

 その隣を青い弾丸が駆けた。衝撃で欠けた白いタイルが血たまりに波紋を起こす。
 リリィだ。
 リリィの表情はない。いつもの無表情ではない。仮面を被ったように感情の揺らぎがない。その手は指が揃えられ、手刀の形。
 音もなく、リリィは少女の前に止まった。瞬きする間もなかった。消え、現れたという結果しか認識できないだろう。リリィのまとめられた髪は乱れ、金糸が広がる。
 腰は低く、手はその首を狙う。
 少女を取り囲んでいた左側の一人が反応するより早くその白い手は首までの直線上にあった剣をたやすく――紙をナイフで裂くように――断った。
 首を簡単に斬り落とすだろう。
 リリィの目は赤く染まっていた。あたかも、少女の首から噴水のごとくあふれ出るだろう血を先に浴びたかのように。
 少女がひゅっと喉を鳴らす間もない。切り落とされた剣が落ちて音を鳴らす間もない。純粋で凶悪な刃が横に一文字を描――

「――止めろ。Nejimaki product vs. MaGiNa massacre type first title doll――Lily」

 剣が落ちる静かく響いた声に、ガチッと硬い何かがぶつかり合う音を立て、リリィの手が止まった。少女の首から一筋の血が流れる。もう少し緊急停止指示が遅ければ頭と体は離れていただろう。

 ふーっと大げさに息を吐いた。和久は未だ赤い瞳をしているリリィに微笑を向けた。血は止まっていない。醜い肉塊に変わった左腕を無視した。
「それは、貴女の仕事ではありません」
「契約者に仇為す者を生かしておく理由がありません」
 和久は笑みを濃くした。瞳は笑ってはいない。ここで説得できなければ、簡単に彼女はその手を紅く染めてしまうだろう。
 想像を絶する痛みが彼を苛んでいるというのに、彼は些細な怪我でしかないように振る舞う。
 その精神力は如何ばかりのものか。
「リリィ=ネジマキ。貴女は受付嬢です。暗殺者でも、我が社の派遣社員でもない。スマイルゼロ円の麗しきマスコット、受付嬢です。貴女が天照の領域にいる限り。それが契約内容です」
 そして、ここは天照本社で、貴女は勤務時間内です、と付け加えられた。リリィの表情が歪む。その手はまだ、首に添えられている。
「リリィさん。貴女がしようとしていることを、契約者たるわたしも、そして貴女の大切な小さな主も望んではいません」
 リリィの手が、首から離れた。その瞳はいつもの青に戻る。それを見届け、和久はにっこりといつもの笑顔を向け、和泉に視線を向けた。
「おう。大丈夫か」
「アホぬかせこのぼけ! かっこつけてんとさっさと治療してもらわんかい!」
「お前、パニくると口悪るなる癖なおせゆうとるやろ。リリィさん連れて治療班を手術室にいかさせといて。女性やのに痕残ったらあかんやろ」
 その言外の意味に気づき、和泉は怒りと恐怖に顔を歪ませた。口を開く前に和久は付け加えた。
「俺はもうちょっと、な。いいから、行け。リリィさんも。社長命令ですよ」
 リリィには優しい口調で促した。命令の一言に弱い――縛られているのを逆手にとった卑怯なやり方だ。分かっているが、早くしなくては気を失ってしまう。痛みというより連続する衝撃が頭に来る。天照の社長がこんなことになっていること自体が危険だというのに、ここで無様に倒れるなんて醜聞を広める気はない。会長に殺されるな。
 だが、落とし前はつけさせてもらわんと。リリィが和泉を引きずっていくのを見届けてから、振り返った。彼女たちがこの場所にいないという安心から脂汗が滴り落ちる。大きな鐘が頭蓋骨を破ろうとしているがそんなこと問題じゃない。あぁ、そうだ。彼女たちさえ無事ならいいんだ。腕一本くらい――どうせ利き腕じゃない――くれてやる。



 誰もが言葉を失っている中、青年は悠然と歩き出す。
 一歩、一歩。それは痛みなど感じさせないもの――いや、そもそも痛みを感じていないようにすら見える。その血色の悪い顔にうっすらと笑みまで浮かんでいればなおさらだ。ただ、足跡の代わりに血がその道を残した。
 剣と銃の中心の少女は死体が歩いているのを見るように、恐怖に顔を引きつらせていた。
 首の痛みがどうした。この訳の分からない男より直接的で恐ろしくはなかった。
 後から来た首輪の電撃に喉が焼け、声帯はつぶれたと思うほどの痛みがする。床に頬を押し付けられた体勢は、屈辱的だが、体を起こしているよりも楽だった。
 あの女を殺せなかったのは残念だった。だが、必ず、殺してやる。失敗したことにより、手が届かないと改めて示され、さらに少女の中で羨望が歪んだ憎悪がぞわりと煮立つ。
「こんばんは」
 それを察知したかのように、和久が少女に声をかけた。こんばんは。
 頬を床に押し付けられ、上がみえない。男が近づいてくるにつれ、姿の見える範囲は狭まってゆく。
 だからこそ恐い。じっとりとした汗が気持ち悪い。心臓が肋骨を突き破るほど、その場から単身逃げようともがく。しかし、ここで屈する訳にはいかない。魂までプライドまで屈するのは死と等しい。
「先程は、少々おふざけが過ぎたように思われますが、貴女ご自身はどう思われているのでしょうか」
 悪態をつこうとしても喉が焼けて声が出ない。頭の奥で止めろという声がしたが、彼女のプライドがそれを押しのけた。けっとつばを吐きかける。
 怒っと空気が盛り上がる。剣の刃がぐっと近くなる。銃口も光っているだろう。こんな時だというのに少女は高らかに笑いたい衝動を堪えた。実際喉を痛めていなければ狂ったように笑っていただろう。あのお高くとまった天照の連中を動揺させているのだ。動かしているのだ。この自分が!
 その社員の動揺を、和久は右手で制した。
「つまり、反省の色がない、ですか」
 なるほどね。
 和久は近藤に目を向けた。にっこりと笑って笑って笑って提案の形をとった決定事項を突きつけた。
「彼女の身柄は天照が全面的に引き受けます。勿論、吐き出した情報は無償でお渡ししましょう――そうですね、三日いや二日もあれば彼女の素敵な人生の全てがわかりますよ」
 そのためには手段を選ばないと伺わせる。近藤の表情は硬い。
「榊原殿」
「彼女は天照に害をもたらしましたから。我が社の姫・和泉と愛しき人のリリィを。わたしの大切な二人をなお傷つけようとしている」
 近藤局長、天照はね。
 丁度、少女の目の前に立つ。見下ろして、見下して、一言。
「慈善団体ではないのですよ」
 氷よりも遙かに冷たい魂を凍らせる極寒の声だった。
 和久は護衛の制止を静かに払い、しゃがみ込んだ。動かせぬ腕が地面に当たるも眉を少し動かしただけだった。
 そして右手で少女のあごを掴み、無理矢理上を向かせた。少女の顔が苦悶する。その手に優しさはなかった。
 顔をゆっくりと近づけた。吐息が交じる位置だ。爛々とドス黒く光る目と冷え冷えと怒りの蒼炎を燃やす目が合う。
「お前、和泉を――俺の妹を狙ったな」
 少女にしか聞き取れぬ小さな声は奇妙なことに笑っていた。
「俺の大事な妹をよくも傷つけてくれたな」
 あの恐怖に翳った瞳を思うと心が痛む。天照は彼女が望むような生き方ができるようにするためだけにあるようなものだと和久は考えていた。
 ここは天照だ。そして天照大神、日本神話にでてくる女神。全ての始祖たる太陽。妹や母や――命短し尊き榊原の女性達。
 彼女たちを――妹を守る。それが榊原の男の使命だと、父が妹が産まれたときに自分に言った。小さな小さな赤ん坊。生まれたてでしわくちゃで真っ赤で猿みたいな変な赤ん坊。自分の手をきゅっと握ったあの手。母が死んで、ずっと自分の後ろをついて回った妹。
 とうとう命の期限が近づいている。和泉は二十歳、この前は風邪を引いた。あのとき、とれほど自分が動揺したか。覚悟はしているつもりだった。しかしそれはつもりでしかなかった。
 せめてその短い天寿を全うさせたい、改めて思った。

 というのに、その命を狙いやがッた馬鹿がいる。

「俺の愛するリリィさんをよくも傷つけてくれたな」
 DOLL? あの螺槇が作った殺戮人形? それがどうした。リリィさんはリリィさんだ。誇り高い女性だ。そして――情が深い。魁を思う彼女は美しい。彼女にそう言えば否定するだろう。感情などないプログラムでしかないと馬鹿みたいに否定するだろう。
 一目惚れだった。和泉と共謀して重役達を黙らせて受付嬢の仕事を与えた。父も応援しているんだか邪魔をしているんだがやっている。生半可な気持ちでは彼女を手に入れられないと、そして世間に認めてもらえないからだろう。こういうときはただの男であれないことがふがいなくおもえる。
 だが、いいのだ。天照社長という地位に無ければ、榊原劾の息子というポジションにいなければ彼女の契約者どころか眼中にも入れないのだから。
 どんなに時間がかかってもいい。彼女は人間の寿命より倍近く長く生きるのだ。人生に彼女がいなければ意味がない。
 そんな彼女を傷つけた。人工筋肉の下に埋まった骨格フレームがのぞいていた。そしてなにより、彼女がなによりも疎んでいる殺戮衝動を引き起こしてしまった。自分が怪我をしたからだ。歪んだ喜びよりも自分の不甲斐なさで情けない。少しずつはがれてきていた殺戮人形というレッテルを張り直すことになってしまった。

 そんなこんなを引きおこしやがッた馬鹿がいる。

 あぁ、畜生。無力すぎる。
 どんなに上手く契約が取れたって、仕事が出来たって、守りたい人を守れないなら意味がない。
 天照を傷つける者は容赦はしない。天照の初代――もともとがヤクザだったことは公然の秘密だ。獰猛な血が、自分にも流れている。

「おい、覚えておけ。これがお前が傷つけた天照の顔だ」
 次に天照に仇為せば、必ず俺の目がお前を見つけ出すと思え。
 あごの骨に指を食い込ませるように強く掴み続ける。
 視線がぶれるのも許さない。今更後悔しても遅い。謝るくらいなら最初からするな。
 耳元に口を寄せる。
「おい、覚えておけ。これがお前が傷つけた天照の声だ」
 次に天照に仇為せば、必ず俺の声がお前の耳に響くと思え。
 小さな悲鳴のような、掠れ声が上がった。しゃがれているところをみると、喉を焼いたのかもしれない。普段のフェミニストはひっそりと形をひそめ、くっくっくと残忍な声が少女の耳朶を打った。
 和久の大きな手は少女のあごから首まで覆い尽くす。ぎゅっと力を込めた。少女は息苦しそうにするが、止めない。
「おい、覚えておけ。これがお前が傷つけた天照の手だ」
 次に天照に仇為せば、必ず俺の手がお前の喉を潰すと思え。
 涙が、指に伝わる。それがどうした。これくらい、なんだというのだ。リリィの怪我の方がひどい。そして自分の左腕だって同じようなものだ。
 意識すると、とたんに痛み出した。悲鳴を堪えるが、喉の奥でぐぅとなった。まだだ、意識を飛ばすのはまだだ。
 和久は朦朧とする意識の中、左手を無理矢理あげる。激痛が脳天を切り裂く。真っ白の世界に行きそうになる。歯が割れるほど、食いしばった。少女の口に指を突っ込みむりやりこじ開ける。
 ぼた、ぼた、ぼた。
 少女の顔が醜く歪む。首を振り、よけようとするのを強引に押さえつける。これで最後だと。盾には室井とかいうヒーラーがいたはずだ。最悪、そっちになおして貰えばいい。最終手段はエン様だな! ふらふらと、大量の血が抜けた体はなぜか重い。目の前が紅く染まっていく。遠くの方で妹の怒声が聞こえる。それを引き寄せて滑っていく意識を握り直す。
 荒い息の中、赤濁する意識の中、それでも和久は言葉を押し出した。
「おい、覚えておけ。これがお前が傷つけた天照の血の味だっ!」


次に天照に仇為せば、必ず俺の血が貴様の臓物を腐爛させると思え――!!